レインボーカップA級ファイナルも同時に行われた取手記念の決勝。並びは渡辺-山崎の福島,石井-勝瀬の南関東,原田-中川の西国で城と竹内と村上は単騎。
スタートを取った渡辺の前受け。3番手に石井,5番手に村上,6番手に原田,8番手に城,最後尾に竹内という周回に。残り2周のホーム手前から村上が動いていくと,その外を原田,さらに竹内も上昇。バックで竹内が前に出ると,うまく動いた石井が番手に入って打鐘。以下,4番手に原田,6番手に村上,7番手に城,8番手に渡辺という一列棒状に。ホームから村上が城を連れて動きましたが,バックで追い付く前に石井が番手発進。しかし引いていた渡辺がこれらを一捲りですべて飲み込んで優勝。原田がインに詰まったため山崎の後ろにスイッチした中川が大外を追い込んで1車身差の2着。渡辺の捲りにやや離れ気味だった山崎は半車輪差で3着。
優勝した福島の渡辺一成選手は昨年4月の高知記念以来の記念競輪6勝目。取手記念は初優勝。持ち味が鋭いダッシュ力ですから、今日のように前でやり合うような展開は理想的。前で受けてあっさりと引き,自分のタイミングで仕掛けるという,最高のレースになりました。競技で活躍しているように,潜在的な力は相当に高いものがありますから,それをレースで生かせるようになれば,GⅠにも間違いなく手が届く選手だと思います。
スピノザとオルデンブルクHeinrich Ordenburgの文通については,若干の補足が必要かと思います。
スピノザが出したり受け取ったりした書簡は,スピノザの死後に,遺稿集Opera Posthumaの中に収録されました。畠中尚志によって訳出され,岩波文庫版で日本語でも読むことができます。ただ,僕の入手経路もそうであったように,現時点ではこの『スピノザ往復書簡集Epistolae』は,古書としてでなければ入手は困難であると思われます。

当然のことながら,これはスピノザが差出人ないしは受取人となっている書簡のすべてではありません。たとえばライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,遺稿集の発刊を知り,自身がスピノザと関係していたことを秘匿するために,ライプニッツ自身が関係する書簡が収録されないように奔走しました。それが無駄であったのか,あるいは何らかの手違いがあったためかは不明ですが,ライプニッツからスピノザに宛てた1通の手紙と,スピノザによるその返信は収録されているのですが,ライプニッツとスピノザの間での書簡のやり取りがこれだけでなかったことは確実です。それが収録されていないのは,単にその書簡が失われていたためであったかもしれませんが,ライプニッツの努力の結果だった可能性は否定できません。このようなケースがほかにもあったかもしれないということは,想定しておく必要があるのではないかと思います。
最終的に収録されたのは84通。このうち最後の書簡はスピノザが出したものですが,友人へとなっていて,だれに宛てたものかは不明です。ただ,その内容から,スピノザに『国家論Tractatus Politicus』を執筆するように勧めた相手に対してのものであることは確実です。一般にスピノザに『国家論』を書くように勧めたのは,イエレスJarig Jellesという人物だとされています。イエレスは元々はアムステルダムAmsterdamの香料商人で,おそらくスピノザと貿易に密接な関係があった頃からの古い友人であると推定されます。スピノザとの交友関係は途切れることなく続き,死後の遺稿集を編纂したうちのひとりになり,さらにその遺稿集の序文を書いています。こういった事情から,僕はこの書簡八十四に関しては,スピノザからイエレスに宛てたものと解します。
スタートを取った渡辺の前受け。3番手に石井,5番手に村上,6番手に原田,8番手に城,最後尾に竹内という周回に。残り2周のホーム手前から村上が動いていくと,その外を原田,さらに竹内も上昇。バックで竹内が前に出ると,うまく動いた石井が番手に入って打鐘。以下,4番手に原田,6番手に村上,7番手に城,8番手に渡辺という一列棒状に。ホームから村上が城を連れて動きましたが,バックで追い付く前に石井が番手発進。しかし引いていた渡辺がこれらを一捲りですべて飲み込んで優勝。原田がインに詰まったため山崎の後ろにスイッチした中川が大外を追い込んで1車身差の2着。渡辺の捲りにやや離れ気味だった山崎は半車輪差で3着。
優勝した福島の渡辺一成選手は昨年4月の高知記念以来の記念競輪6勝目。取手記念は初優勝。持ち味が鋭いダッシュ力ですから、今日のように前でやり合うような展開は理想的。前で受けてあっさりと引き,自分のタイミングで仕掛けるという,最高のレースになりました。競技で活躍しているように,潜在的な力は相当に高いものがありますから,それをレースで生かせるようになれば,GⅠにも間違いなく手が届く選手だと思います。
スピノザとオルデンブルクHeinrich Ordenburgの文通については,若干の補足が必要かと思います。
スピノザが出したり受け取ったりした書簡は,スピノザの死後に,遺稿集Opera Posthumaの中に収録されました。畠中尚志によって訳出され,岩波文庫版で日本語でも読むことができます。ただ,僕の入手経路もそうであったように,現時点ではこの『スピノザ往復書簡集Epistolae』は,古書としてでなければ入手は困難であると思われます。

当然のことながら,これはスピノザが差出人ないしは受取人となっている書簡のすべてではありません。たとえばライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,遺稿集の発刊を知り,自身がスピノザと関係していたことを秘匿するために,ライプニッツ自身が関係する書簡が収録されないように奔走しました。それが無駄であったのか,あるいは何らかの手違いがあったためかは不明ですが,ライプニッツからスピノザに宛てた1通の手紙と,スピノザによるその返信は収録されているのですが,ライプニッツとスピノザの間での書簡のやり取りがこれだけでなかったことは確実です。それが収録されていないのは,単にその書簡が失われていたためであったかもしれませんが,ライプニッツの努力の結果だった可能性は否定できません。このようなケースがほかにもあったかもしれないということは,想定しておく必要があるのではないかと思います。
最終的に収録されたのは84通。このうち最後の書簡はスピノザが出したものですが,友人へとなっていて,だれに宛てたものかは不明です。ただ,その内容から,スピノザに『国家論Tractatus Politicus』を執筆するように勧めた相手に対してのものであることは確実です。一般にスピノザに『国家論』を書くように勧めたのは,イエレスJarig Jellesという人物だとされています。イエレスは元々はアムステルダムAmsterdamの香料商人で,おそらくスピノザと貿易に密接な関係があった頃からの古い友人であると推定されます。スピノザとの交友関係は途切れることなく続き,死後の遺稿集を編纂したうちのひとりになり,さらにその遺稿集の序文を書いています。こういった事情から,僕はこの書簡八十四に関しては,スピノザからイエレスに宛てたものと解します。