仮面貴族はリングの中でも外でもナルシストであったのは事実と思います。ですが僕はそのことを全面的には否定しません。むしろ僕にはマスカラスはナルシストになる十分な理由があったと思えるからです。
馬場はマスカラスのことを実力的には大したことはなかったといっています。それは確かに事実なのでしょう。ですが観客動員力があったというのもまた事実です。そしてこのことは,プロレスラーとして誇ることが許されることだと思います。どんなに実力があったとしても,客を呼ぶことができないのであれば,プロとしては失格という烙印を押されても致し方ないと思うからです。
プロレスラーたるものは客を呼ぶことができなければならないという考え方は,馬場にもあったと思います。というより馬場は全日本プロレスの社長であったのですから,そういう考え方をもっていなければ,経営していくことができなかった筈だと思うのです。たとえば馬場がマスカラスを低く評価している実力に関していえば,不沈艦とか超獣は,レスリングのセオリーを会得しているとはいえないとしても,強かったということを馬場は認めていました。ですが経営者としての馬場がこのふたりを同じように評価していたのかといえばそうでもありません。全日本プロレスへの貢献という意味においては,ハンセンの方がブロディより上であったと馬場ははっきりといっています。馬場はその理由に関しては明言していませんが,意味するところはハンセンの方がブロディよりも客を呼べたということにあるのは間違いないといっていいでしょう。
なのでマスカラスが自分は客を呼べるレスラーであることを理由に,リング内で自分の好きなようにプロレスをしたり,リングの外でほかの選手より上位の待遇を要求することがあったとしても,単に自分勝手な振舞いであるという評価だけをすればよいというものではないと僕は思うのです。つまり僕がマスカラスをナルシストであるというとき,それは必ずしもマスカラスを批判しようという意図だけを含んでいるわけではありません。
正直なところ,第五部定理二三備考の抜粋部分でスピノザが何をいいたかったかが,僕にはよく分かっていないかもしれません。けれどもこういうことではないかと思うところはあるのです。
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僕たちは様ざまな事物を表象することによって,現実的に存在すると認識します。これと同じようなことが,僕たちが論理的に帰結させた事柄の場合にも生じるとスピノザはいっているのではないでしょうか。すなわち,推論によって論証された事柄は,表象によって事物が現実的に存在すると認識されるように認識される,あるいは認識され得るとスピノザはいっていると思うのです。
スピノザはそのことについては何もいっていませんが,仮に僕の解釈が正しいものであったとしたら,ここにはよく注意しておかなければならないことが含まれていると僕は考えます。僕たちが表象によって事物を認識するとき,それはその事物を混乱して認識しているのです。しかし僕たちが推論をする場合には,これは第二種の認識cognitio secundi generisに依存することを意味するので,十全に認識するのです。ですから同じようにそれを現実的に存在すると認識するとしても,いい換えればそういう感覚を感じるとしても,その感覚には大きな違いがあるといわなければなりません。表象による感覚が受動的感覚であるとするなら,推論による感覚は能動的感覚といわなければならないでしょう。
能動的感覚というと,それ自体が語義矛盾であるかのように思われるかもしれません。しかし僕はスピノザの哲学においては,こういういい回しが必ずしも的確性を欠くとは思いません。なぜならスピノザの哲学における能動と受動の相違というのは,それを人間の精神に限定させていえば,その人間の精神が十全な原因となっているか部分的原因となっているかの相違にすぎず,それで生じる思惟作用,感覚も含めた思惟作用は,必然的にその精神に生じるものであるという点では何らの相違もないからです。いい換えれば主体の排除というのは,精神が能動的である場合にも受動的である場合にも同じように妥当するからです。つまり主体的感覚はあり得ませんが,能動的感覚というのは確かにあると思うのです。
馬場はマスカラスのことを実力的には大したことはなかったといっています。それは確かに事実なのでしょう。ですが観客動員力があったというのもまた事実です。そしてこのことは,プロレスラーとして誇ることが許されることだと思います。どんなに実力があったとしても,客を呼ぶことができないのであれば,プロとしては失格という烙印を押されても致し方ないと思うからです。
プロレスラーたるものは客を呼ぶことができなければならないという考え方は,馬場にもあったと思います。というより馬場は全日本プロレスの社長であったのですから,そういう考え方をもっていなければ,経営していくことができなかった筈だと思うのです。たとえば馬場がマスカラスを低く評価している実力に関していえば,不沈艦とか超獣は,レスリングのセオリーを会得しているとはいえないとしても,強かったということを馬場は認めていました。ですが経営者としての馬場がこのふたりを同じように評価していたのかといえばそうでもありません。全日本プロレスへの貢献という意味においては,ハンセンの方がブロディより上であったと馬場ははっきりといっています。馬場はその理由に関しては明言していませんが,意味するところはハンセンの方がブロディよりも客を呼べたということにあるのは間違いないといっていいでしょう。
なのでマスカラスが自分は客を呼べるレスラーであることを理由に,リング内で自分の好きなようにプロレスをしたり,リングの外でほかの選手より上位の待遇を要求することがあったとしても,単に自分勝手な振舞いであるという評価だけをすればよいというものではないと僕は思うのです。つまり僕がマスカラスをナルシストであるというとき,それは必ずしもマスカラスを批判しようという意図だけを含んでいるわけではありません。
正直なところ,第五部定理二三備考の抜粋部分でスピノザが何をいいたかったかが,僕にはよく分かっていないかもしれません。けれどもこういうことではないかと思うところはあるのです。
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僕たちは様ざまな事物を表象することによって,現実的に存在すると認識します。これと同じようなことが,僕たちが論理的に帰結させた事柄の場合にも生じるとスピノザはいっているのではないでしょうか。すなわち,推論によって論証された事柄は,表象によって事物が現実的に存在すると認識されるように認識される,あるいは認識され得るとスピノザはいっていると思うのです。
スピノザはそのことについては何もいっていませんが,仮に僕の解釈が正しいものであったとしたら,ここにはよく注意しておかなければならないことが含まれていると僕は考えます。僕たちが表象によって事物を認識するとき,それはその事物を混乱して認識しているのです。しかし僕たちが推論をする場合には,これは第二種の認識cognitio secundi generisに依存することを意味するので,十全に認識するのです。ですから同じようにそれを現実的に存在すると認識するとしても,いい換えればそういう感覚を感じるとしても,その感覚には大きな違いがあるといわなければなりません。表象による感覚が受動的感覚であるとするなら,推論による感覚は能動的感覚といわなければならないでしょう。
能動的感覚というと,それ自体が語義矛盾であるかのように思われるかもしれません。しかし僕はスピノザの哲学においては,こういういい回しが必ずしも的確性を欠くとは思いません。なぜならスピノザの哲学における能動と受動の相違というのは,それを人間の精神に限定させていえば,その人間の精神が十全な原因となっているか部分的原因となっているかの相違にすぎず,それで生じる思惟作用,感覚も含めた思惟作用は,必然的にその精神に生じるものであるという点では何らの相違もないからです。いい換えれば主体の排除というのは,精神が能動的である場合にも受動的である場合にも同じように妥当するからです。つまり主体的感覚はあり得ませんが,能動的感覚というのは確かにあると思うのです。