スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

私の認識&福居純の見解

2016-04-22 19:18:02 | 歌・小説
 Kが自殺したと言わずに変死したと言ったのは,奥さんによる意図的ないい換えであったと僕は考えます。そしてこのいい換えを合理的に説明するためには,Kが死んだということは公言してもよいが,死因が自殺であったということは伏せておかなければならないという約束が,先生と奥さんの間にあったと解するのが最適だと考えます。このようにみれば上十四の奥さんの呼びかけのテクストも,先生がKが自殺したと言ってしまいそうに思えたのでそれをたしなめたというように解することも可能でしょう。
                                     
 ではこのいい換えは,私に対しては効果的だったのでしょうか。すなわちこのようにいい換えられることによって,私はKが自殺したというように認識することができなかったのでしょうか。
 私の手記は事後の再構成なので,書いている時点ではKの自殺を私は知っているということが前提になります。私は先生が自殺した後に,すなわち先生の遺書を読んだ後で書いているという設定になっているからです。ですが,その時点でのことをいえば,僕はいい換えは私に対して効果的であったと考えています。
 上二十四で,先生が私に対して不自然な暴力での死という話をするテクストがあります。私は不自然な暴力の意味が飲み込めず,先生に尋ねます。すると先生は,自殺する人は不自然な暴力を使うと答えます。私はそれで合点がいき,それなら殺されてしまうのも不自然な暴力になると言い,会話がもう少しだけ続きます。
 私は,このときの会話はその場限りの浅い印象だけを残し,後には何も頭に残らなかったという意味のことを記しています。もしも私がKは自殺したと知っていたなら,たぶんそうはならなかった筈だと僕は考えます。いい換えは上十九ですからこれより以前のことです。すなわちKの変死をKの自殺とは私は解さなかったというのが僕の見解です。

 一連の論述が,人間の精神が人間の身体より優越的であるとか,身体にはない特権を精神が有しているわけではないというのは,僕の見解であって,これに対して反論もあり得ることを僕は認めますし,そうした反論にも一理あると思います。同様に,事物の本性とはその事物が存在するという意味において形相的に存在すると解するのも僕の見解であり,事物の本性とは客観的有以外の何物でもないという解釈にもやはり一定の合理性があることも僕は認めます。
 スピノザの哲学の解釈で,こうした部分に見解の相違が発生してしまうのは止むを得ないと僕は思っています。そこで,僕と同じように,この一連の論述は精神の身体に対する優越性や特権を意味するものではないという観点から主張されているものを,ひとつだけ紹介しておきましょう。僕のような見解がどのような道筋で導かれ得るのかということについて,僕とは別の論拠を示しておくことは,見解そのものについて大いに参考になると思われるからです。紹介するのは福居純の『スピノザ『エチカ』の研究』です。
 まず福居は,第五部定理二二がどのように論証されるべきかを詳しく説明しています。他面からいえばそれは,スピノザによる証明には不備があると福居は考えていることになるでしょう。ただしそれは,福居にはこれ以降の一連の論述は,精神の優越性とか身体にはない精神の特権を意味するものではないと解釈するべきだという考えがあるので,それをよりよく示すために不備があるというように理解するのが妥当だと思います。いい換えれば,スピノザによる証明は,ただ第五部定理二二を論理的に証するという意味においては十分だと福居は考えていると解する余地があるでしょう。
 僕自身についていえば,スピノザによる論証で第五部定理二二は十分に証明されています。そこで福居が何を根拠に論証するべきだと考えているのかという点についてのみ,簡潔に紹介するにとどめておきましょう。それはまず第一部定理二五で,これはスピノザも利用しています。続いて第一部定理二五備考ですが,これも定理の備考なので,とくにスピノザと相違はないといっていいでしょう。
コメント
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