書簡五十の冒頭では,スピノザがイエレスJarig Jellesからの質問に答える形で,ホッブズの国家論とスピノザの国家論にどんな差異があるのかに言及しています。解答はごく簡単なもので,スピノザの国家論ではホッブズの国家論とは異なり,人の自然権がそのまま保持されているというものです。このために国家権力が国民に対して有する権利は,国民に力の上で優っている度合いに相当するだけの力になると説明しています。
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これは確かにホッブズとスピノザとの間の大きな差異であるといえます。というのはホッブズの政治論では,国民は自身の自然権を全面的に国家に対して譲渡するということになっています。このために国家は国民に対して絶対的な権限を有することになります。これに対してスピノザは,国民が国家に対して自然権を全面的に譲渡するなどということはあり得ず,したがって国家も国民に対して絶対的な権限を有するということはあり得ないといっているからです。
これはひとつには国家というものの概念についてのスピノザとホッブズとの間の相違に帰着します。スピノザは自然法則が「唯一」であると考えるので,国家というのもその必然性に即して形成されるものと理解します。要するに国家も自然の一部であると考えるのです。しかしホッブズにはこのような考え方はありません。むしろそこでは国家は自然と対立するもの,あるいは自然状態を克服したものと考えられているといえるでしょう。
もうひとつは自然権そのものに対する考え方の差異に帰着します。スピノザにとって自然権とは,なし得ることと同一でした。ですからホッブズがいう自然状態において人がなし得ることがあるのと同じように,国家の中においても人にはなし得ることがあり,国家はそのなし得る事柄に反しては絶対的な権限を有することはできないということになるのです。つまりこれは,国家が絶対的な権限を有してはいけないという意味ではありません。そんな権限を有することは不可能であるという意味なのです。
福居は第一部定理二五備考に触れた後で,人間の身体の本性が神の本性を通して概念されなければならないことを示すために,第一部公理四を援用しています。ここもスピノザと同じです。次に第一部定理一六に訴えるのも同様です。最後に第二部定理三を援用するのも同じなのですが,その中間に別の説明が入っています。それは神が無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟することができるということ,他面からいえば神は神自身の本性とその本性を原因として発生するあらゆるものの観念を有するという点です。なぜこれを示す必要が福居にあったのかといえば,このことを第一部公理六に訴えて,それが対象と一致するということを示すためです。いい換えれば第二部定理三を援用するために,何らかの対象があって,それが神によって概念されていると福居は強調したかったのだと僕は解します。
これが第五部定理二二の福居による論証なので,そこでいわれている人間の身体の本質というのが,形相的な意味で存在していると福居が考えていることは間違いないでしょう。そのことは,後続の説明からも確かめられると僕は考えています。
福居によれば,第五部定理二二というのは,主知主義的解釈や観念論的解釈が退けられた定理であり論証です。ここでスピノザがいいたかったのは.人間の身体の本性が,それ自身によって永遠であるということはあり得ず,それは神の本性という原因を通して永遠なのであるということだというのが福居の見解です。これはもっと一般的にいえる筈で,要するに個物の本性はそれ自体で永遠ではなく,しかし神の本性を通しては永遠であるということです。これ自体は記述から福居も肯定しているといえます。
福居がこのようにいうのは,スピノザ自身が証明で第一部定理二五を援用したことから妥当であるように僕には思えます。ただしそれは,僕自身の見解として説明したように,僕がそこから備考,系へと続く一連の流れは,たとえば個物の本性が,個物が存在するといわれるのと同じ意味で存在すると主張していると解するからです。ということは,福居も当該部分を僕と同様に解していることになるでしょう。
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これは確かにホッブズとスピノザとの間の大きな差異であるといえます。というのはホッブズの政治論では,国民は自身の自然権を全面的に国家に対して譲渡するということになっています。このために国家は国民に対して絶対的な権限を有することになります。これに対してスピノザは,国民が国家に対して自然権を全面的に譲渡するなどということはあり得ず,したがって国家も国民に対して絶対的な権限を有するということはあり得ないといっているからです。
これはひとつには国家というものの概念についてのスピノザとホッブズとの間の相違に帰着します。スピノザは自然法則が「唯一」であると考えるので,国家というのもその必然性に即して形成されるものと理解します。要するに国家も自然の一部であると考えるのです。しかしホッブズにはこのような考え方はありません。むしろそこでは国家は自然と対立するもの,あるいは自然状態を克服したものと考えられているといえるでしょう。
もうひとつは自然権そのものに対する考え方の差異に帰着します。スピノザにとって自然権とは,なし得ることと同一でした。ですからホッブズがいう自然状態において人がなし得ることがあるのと同じように,国家の中においても人にはなし得ることがあり,国家はそのなし得る事柄に反しては絶対的な権限を有することはできないということになるのです。つまりこれは,国家が絶対的な権限を有してはいけないという意味ではありません。そんな権限を有することは不可能であるという意味なのです。
福居は第一部定理二五備考に触れた後で,人間の身体の本性が神の本性を通して概念されなければならないことを示すために,第一部公理四を援用しています。ここもスピノザと同じです。次に第一部定理一六に訴えるのも同様です。最後に第二部定理三を援用するのも同じなのですが,その中間に別の説明が入っています。それは神が無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟することができるということ,他面からいえば神は神自身の本性とその本性を原因として発生するあらゆるものの観念を有するという点です。なぜこれを示す必要が福居にあったのかといえば,このことを第一部公理六に訴えて,それが対象と一致するということを示すためです。いい換えれば第二部定理三を援用するために,何らかの対象があって,それが神によって概念されていると福居は強調したかったのだと僕は解します。
これが第五部定理二二の福居による論証なので,そこでいわれている人間の身体の本質というのが,形相的な意味で存在していると福居が考えていることは間違いないでしょう。そのことは,後続の説明からも確かめられると僕は考えています。
福居によれば,第五部定理二二というのは,主知主義的解釈や観念論的解釈が退けられた定理であり論証です。ここでスピノザがいいたかったのは.人間の身体の本性が,それ自身によって永遠であるということはあり得ず,それは神の本性という原因を通して永遠なのであるということだというのが福居の見解です。これはもっと一般的にいえる筈で,要するに個物の本性はそれ自体で永遠ではなく,しかし神の本性を通しては永遠であるということです。これ自体は記述から福居も肯定しているといえます。
福居がこのようにいうのは,スピノザ自身が証明で第一部定理二五を援用したことから妥当であるように僕には思えます。ただしそれは,僕自身の見解として説明したように,僕がそこから備考,系へと続く一連の流れは,たとえば個物の本性が,個物が存在するといわれるのと同じ意味で存在すると主張していると解するからです。ということは,福居も当該部分を僕と同様に解していることになるでしょう。