Kがお嬢さんに恋したことは,奥さんの拒絶を振りきってKを同居させた先生からみて,成功と失敗の両方が含まれていたと解せます。一方,Kのお嬢さんに対する恋愛感情は,先生のお嬢さんに対する恋愛感情にも影響を及ぼした可能性があるのではないかと僕はみています。
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Kを同居させる以前の先生の認識のうちに,ゆくゆくは自分がお嬢さんと結婚するというものはあったと思われます。下十八の戸棚のテクストは,相手方にその意志があることの先生の確認だと思われるからです。同時にその時点ですでに,お嬢さんに対する恋愛感情を意識していました。下十四ではすでに,お嬢さんに対して信仰に近い愛をもっていたといっているからです。
ですが,この信仰に近い愛という表現は僕には妙に思えるのです。先生は愛の両端に神聖さと性欲があるなら,自分のお嬢さんに対する感情は神聖さの極点だったという意味でこのようないい方をしています。同時にそれが本当の愛だと思っているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないと書いているからです。
信仰に近い愛とか,宗教心と違わない愛というのは,本来ならKに対して適切な表現である筈です。Kは寺の次男なのだからです。むしろKを同居させる先生の目的は,Kを神聖さから性欲へと近づけることにあったと,これは比喩的ですがいえると思うのです。
先生は自分は肉欲を離れられないということを知っていて,しかしお嬢さんに対しては肉欲は抱かなかったのだという意味のことをいっています。確かにそれが本当のことであったのかもしれません。しかし遺書は先生が自殺の間際に,自身の人生を再構成して記述したものです。だからこの記述は,自殺をする直前の先生にとっては事実だったけれども,過去の時点でもそうだったとはいいきれないと思います。
第二部定理七というのは,平行論が導入される契機となっている定理であるといえます。ですがスピノザがこの定理の証明を第一部公理四の援用だけで済ませ,そのほかには何もいっていないのだとすれば,すでに第一部公理四のうちに,平行論を成立させる契機があるとみていいのかもしれません。そうであるとすると,スピノザが何らかの証明において第一部公理四に訴求する場合,それはすでに平行論的な帰結を導こうとしていると解することが可能になります。もちろんスピノザは論証のために第二部定理七を援用する場合があって,その場合との区別は必要と考えておく方が安全ではあるでしょう。しかし援用される第二部定理七が,単に第一部公理四から帰結するとスピノザが考えているのだとしたら,第二部定理七を援用することと第一部公理四を援用することの間には,大した相違はないと解する余地があるのも間違いありません。
この場合,第一部公理四というのは,単に知性intellectusが物事をどのように認識すれば十全であるかということだけを示しているのではないことになります。第一部公理三は,原因が与えられると必然的に結果が生じることを主張しています。このとき原因及び結果が,形相的formalisな意味でいわれていること,あるいは少なくとも形相的意味を含んでいることは疑い得ません。第一部公理四というのはそのことを踏まえた上で,結果の十全な認識は原因の十全な認識を含んでいなければならないということを意味していると考えられます。このとき,第一部公理三でいわれている原因と結果を形相的なものとみなすなら,第一部公理四でいわれている原因の認識と結果の認識というのは,それらの同一個体の認識であることになるでしょう。そうであるなら,第一部公理四にはすでに平行論的解釈が含まれていることになります。というより,これが含まれているからこそ,この公理が第二部定理七の証明をそれだけで成立させ得るのではないでしょうか。
したがって,第五部定理二二証明でスピノザが第一部公理四を援用する際にも,同じことが妥当するといわなければなりません。つまりそこでスピノザはある平行論に言及しているのです。
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Kを同居させる以前の先生の認識のうちに,ゆくゆくは自分がお嬢さんと結婚するというものはあったと思われます。下十八の戸棚のテクストは,相手方にその意志があることの先生の確認だと思われるからです。同時にその時点ですでに,お嬢さんに対する恋愛感情を意識していました。下十四ではすでに,お嬢さんに対して信仰に近い愛をもっていたといっているからです。
ですが,この信仰に近い愛という表現は僕には妙に思えるのです。先生は愛の両端に神聖さと性欲があるなら,自分のお嬢さんに対する感情は神聖さの極点だったという意味でこのようないい方をしています。同時にそれが本当の愛だと思っているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないと書いているからです。
信仰に近い愛とか,宗教心と違わない愛というのは,本来ならKに対して適切な表現である筈です。Kは寺の次男なのだからです。むしろKを同居させる先生の目的は,Kを神聖さから性欲へと近づけることにあったと,これは比喩的ですがいえると思うのです。
先生は自分は肉欲を離れられないということを知っていて,しかしお嬢さんに対しては肉欲は抱かなかったのだという意味のことをいっています。確かにそれが本当のことであったのかもしれません。しかし遺書は先生が自殺の間際に,自身の人生を再構成して記述したものです。だからこの記述は,自殺をする直前の先生にとっては事実だったけれども,過去の時点でもそうだったとはいいきれないと思います。
第二部定理七というのは,平行論が導入される契機となっている定理であるといえます。ですがスピノザがこの定理の証明を第一部公理四の援用だけで済ませ,そのほかには何もいっていないのだとすれば,すでに第一部公理四のうちに,平行論を成立させる契機があるとみていいのかもしれません。そうであるとすると,スピノザが何らかの証明において第一部公理四に訴求する場合,それはすでに平行論的な帰結を導こうとしていると解することが可能になります。もちろんスピノザは論証のために第二部定理七を援用する場合があって,その場合との区別は必要と考えておく方が安全ではあるでしょう。しかし援用される第二部定理七が,単に第一部公理四から帰結するとスピノザが考えているのだとしたら,第二部定理七を援用することと第一部公理四を援用することの間には,大した相違はないと解する余地があるのも間違いありません。
この場合,第一部公理四というのは,単に知性intellectusが物事をどのように認識すれば十全であるかということだけを示しているのではないことになります。第一部公理三は,原因が与えられると必然的に結果が生じることを主張しています。このとき原因及び結果が,形相的formalisな意味でいわれていること,あるいは少なくとも形相的意味を含んでいることは疑い得ません。第一部公理四というのはそのことを踏まえた上で,結果の十全な認識は原因の十全な認識を含んでいなければならないということを意味していると考えられます。このとき,第一部公理三でいわれている原因と結果を形相的なものとみなすなら,第一部公理四でいわれている原因の認識と結果の認識というのは,それらの同一個体の認識であることになるでしょう。そうであるなら,第一部公理四にはすでに平行論的解釈が含まれていることになります。というより,これが含まれているからこそ,この公理が第二部定理七の証明をそれだけで成立させ得るのではないでしょうか。
したがって,第五部定理二二証明でスピノザが第一部公理四を援用する際にも,同じことが妥当するといわなければなりません。つまりそこでスピノザはある平行論に言及しているのです。