スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋聖戦&マルタンの仮説

2016-04-29 19:06:13 | 将棋
 昨日の第87期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は村山慈明七段が2勝,永瀬拓矢六段が2勝。
 振駒で村山七段の先手。角換り相腰掛銀でしたが変則的な手順だったため,後手の永瀬六段の方が先手のような将棋に。先攻しましたが暴発の手があって先手が有利に戦えていたようです。
                                   
 後手も悪くしたのを認めたように粘る指し方をしたので,先手がよくてもさほど差は開いていないのではないかと思います。
 ☗6五歩と角に働きかけました。対して☖4六角と逃げたのですが,これは緩手のような気がして,先手にチャンスが来たのではないかと思われました。
 ☗2五桂の銀取りに☖8五飛☗8六歩☖6五飛と角取りに回りました。これは☖4六角と逃げたときの読み筋だったと推測されます。先手は☗3三桂成☖同金右として☗5二角成。この3手はどちらも変化しにくいのではないでしょうか。
 後手はここで☖7五歩と反撃に転じました。先手は☗3四桂☖同金と捨ててから☗4一銀。
                                   
 どうもこの桂馬を捨ててしまったのはやり過ぎだったようで,単に銀を打っておいた方がよかったようです。それだと後手は金が逃げられず,金を入手して受けに回る手順で先手が有望だったとのこと。第2図から☖3三金上と逃げてからの攻防は後手に分があったようです。
 永瀬六段が勝って挑戦者に。タイトル戦は初出場。第一局は6月3日です。

 マルタンJean-Clet Martinが立てなければならない公式ないしは定理Propositio,そして『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』においては実際にマルタンが立てている公式を,スピノザは認めないだろうと思われることがなぜ僕にとって重大であるのかといえば,マルタン自身がおそらくそうなるであろう結論については何も触れていないからです。もしかしたらマルタンは,そのことが自身とスピノザとの間にある絵画という芸術に対する鑑賞能力の差異に帰せられると考えているのかもしれません。しかしそれは推測にすぎません。マルタンは著書の中ではこれから僕が述べる事柄については何も書いてはいないからです。だとするとマルタンはそうしたことには何も気が付いていないとか,気付いてはいるのだけれどもあえてそこを避けて通ったという可能性も否定することはできません。そしてその場合には,僕はマルタンが立てている,スピノザの哲学とフェルメールJohannes Vermeerとの間の共通の公式は,その土台から崩壊すると考えます。そしてその部分が崩壊してしまうと,「天文学者De astronoom」のモデルがスピノザであるというマルタンの仮説もまた崩壊せざるを得ないだろうと思います。というのはマルタンは,フェルメールの絵画とスピノザの哲学の間には等置できる公式が存在するからこそ,スピノザは「天文学者」のモデルになり得たというように解しているとしか考えられないからです。少なくともマルタンはふたりの間に共通の公式をみたからこそ,モデルがスピノザであるという仮説を思いつき,その仮説を検証しているのです。ですから公式の方が崩壊してしまうと,モデルがスピノザであるという仮説は,いくら歴史的事実を検証し,そうした可能性が皆無ではなかったということを示すことができたとしても,元来の根拠が薄弱になってしまいます。第二部定理四〇の4つの意味のうち,混乱した観念idea inadaequataからは混乱した観念しか発生し得ないというものに注意したなら,実はマルタンが著書において企てたことのすべては,その意味のうちに収斂してしまうかもしれないのです。
 まず,なぜ僕がマルタンが立てた公式をスピノザは認めないであろうと考えるのかということから説明しなければならないでしょう。
コメント
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