昨日の第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
振駒で三浦弘行九段の先手。丸山忠久九段の一手損角換り4でしたが銀は2二に上がりました。後手の早繰り銀に。
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ここで☖7五歩と仕掛けたタイミングが悪く後手が早くも悪くしたようです。先手は☗4六角と打って牽制。後手は☖9二飛と逃げました。この角は5六に歩が突いてある方がおそらく打ちやすく,そういう意味でもそれが突かれた直後の仕掛けはまずかったということなのでしょう。
この交換を入れてから☗7五歩☖同銀と進め☗6五歩と退路を断ったのが好手。放置すると☗5七角~☗7六歩で銀が取られるので☖8四銀と引きました。
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第2図は飛車が動けず,銀を働かせる手段もすぐにはないので先手の作戦勝ちでしょう。あまり緩めずに動いていった先手が押し切り,将棋としては快勝といえる内容でした。
三浦九段が挑戦者に。竜王戦七番勝負には初出場。第一局は来月15日と16日です。
現実的に存在するある人間がAもBも善bonumと認識するcognoscereということと,AもBも希求するということは同じことです。だから第三部定理九備考と第四部定理一九は同義反復でしかないのです。しかしAもBも善であり,かつAの方がより大きな善,いい換えればより大きな喜びlaetitiaを齎すと仮定したとき,AとBが両立し得ないとしたらどうでしょうか。つまりその人間はAによる喜びかBによる喜びのどちらかしか現実化することができない場合,あるいはその人間がそのように表象した場合のことを考えるということです。こういう場合というのが不条理ではないということは,僕たちは経験的によく知っているでしょう。
人間の現実的本性actualis essentiaは,Aの方をBよりも多く希求します。ですからこの仮定の場合に,BよりもAを欲望するということは明白でしょう。一方,Bの方は,それ自体では善であるとしても,Aを現実化するという観点からはその現実化を妨害するものであることになります。したがってこの限りにおいてBはAという善を妨げるものとして,忌避する対象になるでしょう。いい換えればそれは悪malumと認識されることになるでしょう。第四部定義二で,不利益であるものが悪であるといわれず,善の妨げになるものが悪であるといわれると記述されているのは,こうした事情を想定しているからだと思います。
第四部定理一五とか第四部定理一九というのは,このような意味において善と悪の認識cognitioがその人間の欲望cupiditasの起成原因causa efficiensとなり得るということを認めていると僕は考えます。つまりもしもある欲望ないしは喜びおよび悲しみtristitiaがそれ単独で認識されるなら,それは欲望の起成原因ではありません。単なる同義反復です。しかしもし複数の欲望ないしは喜びと悲しみが比較され,その比較の上で一方が善で一方が悪と認識されるならば,この認識が善と認識したものを希求し悪と認識したものを忌避する思惟作用,具体的にいうなら善と認識された観念ideaが含む肯定affirmatioの意志作用volitioと,悪と認識された観念が含む否定negatioの意志作用の起成原因となり得ます。しかもそれは人間の現実的本性に適合するように,すなわち人間の精神mens humanaのうちに必然的にnecessario発生するということになります。
振駒で三浦弘行九段の先手。丸山忠久九段の一手損角換り4でしたが銀は2二に上がりました。後手の早繰り銀に。
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ここで☖7五歩と仕掛けたタイミングが悪く後手が早くも悪くしたようです。先手は☗4六角と打って牽制。後手は☖9二飛と逃げました。この角は5六に歩が突いてある方がおそらく打ちやすく,そういう意味でもそれが突かれた直後の仕掛けはまずかったということなのでしょう。
この交換を入れてから☗7五歩☖同銀と進め☗6五歩と退路を断ったのが好手。放置すると☗5七角~☗7六歩で銀が取られるので☖8四銀と引きました。
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第2図は飛車が動けず,銀を働かせる手段もすぐにはないので先手の作戦勝ちでしょう。あまり緩めずに動いていった先手が押し切り,将棋としては快勝といえる内容でした。
三浦九段が挑戦者に。竜王戦七番勝負には初出場。第一局は来月15日と16日です。
現実的に存在するある人間がAもBも善bonumと認識するcognoscereということと,AもBも希求するということは同じことです。だから第三部定理九備考と第四部定理一九は同義反復でしかないのです。しかしAもBも善であり,かつAの方がより大きな善,いい換えればより大きな喜びlaetitiaを齎すと仮定したとき,AとBが両立し得ないとしたらどうでしょうか。つまりその人間はAによる喜びかBによる喜びのどちらかしか現実化することができない場合,あるいはその人間がそのように表象した場合のことを考えるということです。こういう場合というのが不条理ではないということは,僕たちは経験的によく知っているでしょう。
人間の現実的本性actualis essentiaは,Aの方をBよりも多く希求します。ですからこの仮定の場合に,BよりもAを欲望するということは明白でしょう。一方,Bの方は,それ自体では善であるとしても,Aを現実化するという観点からはその現実化を妨害するものであることになります。したがってこの限りにおいてBはAという善を妨げるものとして,忌避する対象になるでしょう。いい換えればそれは悪malumと認識されることになるでしょう。第四部定義二で,不利益であるものが悪であるといわれず,善の妨げになるものが悪であるといわれると記述されているのは,こうした事情を想定しているからだと思います。
第四部定理一五とか第四部定理一九というのは,このような意味において善と悪の認識cognitioがその人間の欲望cupiditasの起成原因causa efficiensとなり得るということを認めていると僕は考えます。つまりもしもある欲望ないしは喜びおよび悲しみtristitiaがそれ単独で認識されるなら,それは欲望の起成原因ではありません。単なる同義反復です。しかしもし複数の欲望ないしは喜びと悲しみが比較され,その比較の上で一方が善で一方が悪と認識されるならば,この認識が善と認識したものを希求し悪と認識したものを忌避する思惟作用,具体的にいうなら善と認識された観念ideaが含む肯定affirmatioの意志作用volitioと,悪と認識された観念が含む否定negatioの意志作用の起成原因となり得ます。しかもそれは人間の現実的本性に適合するように,すなわち人間の精神mens humanaのうちに必然的にnecessario発生するということになります。