第一部定理八備考二でスピノザが示した定義Definitioの条件を含め,そこで示されていることとほぼ同じ内容が含まれている,スピノザがフッデJohann Huddeに宛てた書簡三十四を詳しく紹介しておきます。
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この書簡はフッデの質問に答えたもの。質問の内容は,神Deusの本性natura,essentiaに必然的存在が含まれていること,すなわち神が自己原因causa suiであるということを根拠として,神が「唯一」であるということがいかにして帰結するのかというものです。つまりスピノザはかつて神の本性に存在が含まれれば神は「唯一」であるということを,口頭か書簡かは不明ですがフッデに伝えたことがあり,しかしフッデはその論理的連結が分からなかったということになります。
スピノザは証明の条件として,事物の定義が定義される事物の本性だけを含むことをまず示します。そのゆえに,定義が定義される事物の数量を含むことはないことが帰結するとしています。
次に,ある事物が存在するためにはそれが存在する原因が必要であるという条件を示します。これは『エチカ』では第一部公理三に該当します。そしてその原因は,定義される事物の外部にあるか内部にあるかのどちらかであるとします。これは第一部公理二に該当するといえます。
ここから,本性を同じくする多数のものが存在するなら,そのものが存在する原因は外部にあることが分かります。なぜなら,事物の定義には定義される事物の数量は含まれないので,もし20のXが存在するなら,20のXが存在する原因が必要で,しかしそれがXの本性すなわち内部に存在することができないからです。
このことから,あるものが「唯一」でないなら,そのものの存在がそのものの本性に含まれることが不可能だと分かります。しかし神の本性には神の必然的存在が含まれてます。したがって神は外部に原因を有しませんから,複数の神が存在することはあり得ません。したがって神は「唯一」であるということが,単に神が自己原因であるということから帰結するのです。同様の手続きで,第一部定理七から第一部定理五が帰結することになります。
メロスが自分が処刑されると分かっていながら帰還した動機は,セリヌンティウスを人質にしたこと,つまりセリヌンティウスが自分の身代わりに処刑されることを回避するためであったといえますが,そもそもその契機を作ってしまったのは自分なのですから,その分だけ余計に戻らなければならないという気持ちを強くさせたと思われます。要するに単にセリヌンティウスを助けるということだけが動機になったのではなく,自分自身で作ってしまった状況に対して,その責任を果たさなければならないということも動機になった筈です。
これに対してセリヌンティウスは,その状況だけでいえばメロスに巻き込まれたにすぎません。それでも人質になることを迷わずに受諾した動機は,メロスに対する愛と信頼だけであったといえます。したがって単に各々の動機だけを比べてみたならば,メロスよりセリヌンティウスの方がよほどなし難いことをなしているように僕には思えます。メロスが帰らなければならない程の強い動機は,セリヌンティウスが人質になる動機には存在しないからです。
僕が『走れメロス』のプロットの構成に難があると思うのは,その点が表面に出てこないようになっているからです。もしも戦闘に勝利した者だけを英雄というのであればメロスだけが英雄であり,ただ待っていただけのセリヌンティウスは英雄などではありません。しかしもしもなした行為の動機によってだれが英雄であるかが判断されるのだとしたら,メロスが英雄であることを僕は否定しませんが,セリヌンティウスも英雄であって,むしろメロス以上の英雄であると思うのです。ところがテクストが示しているのは,英雄というのをどのような意味に解したとしても,メロスだけが英雄であってセリヌンティウスはそうではないということなのです。実際にこの小説をあまり考えることなく通読すれば,そのような印象を受けるのが自然であると思います。これこそ各々のプロットの構成の産物なのであって,そこには作為的なものを僕は感じてしまいます。それはたぶんこの小説のモチーフがそうなっていたのであって,太宰治に作為があったのではないのでしょうが。
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この書簡はフッデの質問に答えたもの。質問の内容は,神Deusの本性natura,essentiaに必然的存在が含まれていること,すなわち神が自己原因causa suiであるということを根拠として,神が「唯一」であるということがいかにして帰結するのかというものです。つまりスピノザはかつて神の本性に存在が含まれれば神は「唯一」であるということを,口頭か書簡かは不明ですがフッデに伝えたことがあり,しかしフッデはその論理的連結が分からなかったということになります。
スピノザは証明の条件として,事物の定義が定義される事物の本性だけを含むことをまず示します。そのゆえに,定義が定義される事物の数量を含むことはないことが帰結するとしています。
次に,ある事物が存在するためにはそれが存在する原因が必要であるという条件を示します。これは『エチカ』では第一部公理三に該当します。そしてその原因は,定義される事物の外部にあるか内部にあるかのどちらかであるとします。これは第一部公理二に該当するといえます。
ここから,本性を同じくする多数のものが存在するなら,そのものが存在する原因は外部にあることが分かります。なぜなら,事物の定義には定義される事物の数量は含まれないので,もし20のXが存在するなら,20のXが存在する原因が必要で,しかしそれがXの本性すなわち内部に存在することができないからです。
このことから,あるものが「唯一」でないなら,そのものの存在がそのものの本性に含まれることが不可能だと分かります。しかし神の本性には神の必然的存在が含まれてます。したがって神は外部に原因を有しませんから,複数の神が存在することはあり得ません。したがって神は「唯一」であるということが,単に神が自己原因であるということから帰結するのです。同様の手続きで,第一部定理七から第一部定理五が帰結することになります。
メロスが自分が処刑されると分かっていながら帰還した動機は,セリヌンティウスを人質にしたこと,つまりセリヌンティウスが自分の身代わりに処刑されることを回避するためであったといえますが,そもそもその契機を作ってしまったのは自分なのですから,その分だけ余計に戻らなければならないという気持ちを強くさせたと思われます。要するに単にセリヌンティウスを助けるということだけが動機になったのではなく,自分自身で作ってしまった状況に対して,その責任を果たさなければならないということも動機になった筈です。
これに対してセリヌンティウスは,その状況だけでいえばメロスに巻き込まれたにすぎません。それでも人質になることを迷わずに受諾した動機は,メロスに対する愛と信頼だけであったといえます。したがって単に各々の動機だけを比べてみたならば,メロスよりセリヌンティウスの方がよほどなし難いことをなしているように僕には思えます。メロスが帰らなければならない程の強い動機は,セリヌンティウスが人質になる動機には存在しないからです。
僕が『走れメロス』のプロットの構成に難があると思うのは,その点が表面に出てこないようになっているからです。もしも戦闘に勝利した者だけを英雄というのであればメロスだけが英雄であり,ただ待っていただけのセリヌンティウスは英雄などではありません。しかしもしもなした行為の動機によってだれが英雄であるかが判断されるのだとしたら,メロスが英雄であることを僕は否定しませんが,セリヌンティウスも英雄であって,むしろメロス以上の英雄であると思うのです。ところがテクストが示しているのは,英雄というのをどのような意味に解したとしても,メロスだけが英雄であってセリヌンティウスはそうではないということなのです。実際にこの小説をあまり考えることなく通読すれば,そのような印象を受けるのが自然であると思います。これこそ各々のプロットの構成の産物なのであって,そこには作為的なものを僕は感じてしまいます。それはたぶんこの小説のモチーフがそうなっていたのであって,太宰治に作為があったのではないのでしょうが。