『それから』も『こころ』も裕福な男と困窮した男の間で三角関係が生じているという構図は同じです。しかし困窮者にあたる『それから』の平岡と『こころ』のKの間には,自身の困窮という経済的状況に対する自意識には差異があるように見受けられます。平岡はそのことを強く自覚しているふしがあるのに対して,Kはまるで無自覚であるかのように思えるのです。とはいえ,『こころ』のテクストの中に,Kによる自身の困窮への発言が皆無というわけではありません。
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Kがお嬢さんすなわち静に恋愛感情を抱いているということを知った先生は,それを諦めるように仕向けるのですが,どうもKにはその気がないようだと感じます。そこでKに対して秘密裡に,奥さんつまり静の母親に,静への求婚を申し込みます。奥さんはかなりあっさりとそれを承諾します。こうして先生と静は結婚することが決まるのですが,おそらくKに対して負い目があったために,先生は自身の口からそれをKに報告することができません。象徴的にいえば先生は襖を開けることができなかったのです。その間に,このことは奥さんの口からKに伝えられます。先生はそれがKに伝えられたことを知らぬままに数日を過ごします。おそらくKの先生に対する表面的な態度が変わったように見えなかったので,先生はそのことをKが聞き及んでいることに気付かなかったのでしょう。そして,先生もまたそれがKに伝えられたことを奥さんから教えられるのです。
先生はそれを聞いて,そのことを話したときのKの様子はどうであったのかを逆に奥さんに尋ねます。奥さんによればKは平然と「そうですか」と一言だけ言いました。そして奥さんが「あなたも喜んでください」と言うと,ようやく「おめでとうございます」と言いました。Kはそのまま席を立ち,それが伝えられた茶の間の障子を閉めるときに,結婚がいつであるかを尋ね,お祝いをあげたいけれども私は金がないからあげることができない,と言いました。
確かにKは自分には金がないと言っています。でもこれはたぶん,自身の困窮を意識した発言ではないのです。
この一件は哲学的に考察できます。
高価で丈夫な傘を置き忘れてしまうのではないかというのは,感情affectusとしてみれば僕がいう不安metusです。第三部諸感情の定義一三にあるように,未来のものの観念ideaから発生する不確かな悲しみtristitiaだからです。安価なビニール傘を持ち歩くことは,この不安を軽減するのに役立つでしょう。なぜなら,高価な傘を失う悲しみより安価な傘を失う悲しみの方がより小さな悲しみであるからです。ところで,スピノザの哲学における善悪は,比較の上でいわれます。よってより小さな悲しみによってより大きな悲しみを避け得るのであれば,より小さな悲しみは,それ自体では第四部定理八にあるように悪malumといわれなければなりませんが,より大きな悲しみすなわちより大なる悪と比較したなら善bonumです。つまり丈夫な傘の代替にビニール傘を持ち歩くことは,一見するとより大なる悪を避けるための善なる行動と思えます。
ところが,それを感情としてではなく,単に観念としてみた場合には様相が異なります。高価な傘であろうと安価な傘であろうと自分がそれを忘れてなくすことは,観念としていえば表象の種類のうち想像に該当する表象像imagoです。第二部定理四九は,観念は観念である限りにおいて必然的に意志作用volitioを含んでいることを意味します。これは,その観念が十全な観念idea adaequataであろうと,この場合の表象像のような混乱した観念idea inadaequataであろうと同じです。したがって,自分が傘を置き忘れてなくすことを想像することのうちには,自分自身に対して傘を置き忘れることを肯定するような意志作用が含まれていることになります。このような意志作用が,実際に傘を置き忘れないようにするために,むしろ逆効果であることは明白でしょう。なぜなら,傘を置き忘れないようにするために効果的な意志作用が存在するとするなら,それは傘を置き忘れることを自分自身に対して否定するような意志作用でなければならないからです。これでみれば分かるように,傘を置き忘れることを肯定する意志作用は,むしろ実際に置き忘れてしまうことに対して貢献するような意志作用であるといえます。
こうした考察から,一般的結論を導くことができます。
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Kがお嬢さんすなわち静に恋愛感情を抱いているということを知った先生は,それを諦めるように仕向けるのですが,どうもKにはその気がないようだと感じます。そこでKに対して秘密裡に,奥さんつまり静の母親に,静への求婚を申し込みます。奥さんはかなりあっさりとそれを承諾します。こうして先生と静は結婚することが決まるのですが,おそらくKに対して負い目があったために,先生は自身の口からそれをKに報告することができません。象徴的にいえば先生は襖を開けることができなかったのです。その間に,このことは奥さんの口からKに伝えられます。先生はそれがKに伝えられたことを知らぬままに数日を過ごします。おそらくKの先生に対する表面的な態度が変わったように見えなかったので,先生はそのことをKが聞き及んでいることに気付かなかったのでしょう。そして,先生もまたそれがKに伝えられたことを奥さんから教えられるのです。
先生はそれを聞いて,そのことを話したときのKの様子はどうであったのかを逆に奥さんに尋ねます。奥さんによればKは平然と「そうですか」と一言だけ言いました。そして奥さんが「あなたも喜んでください」と言うと,ようやく「おめでとうございます」と言いました。Kはそのまま席を立ち,それが伝えられた茶の間の障子を閉めるときに,結婚がいつであるかを尋ね,お祝いをあげたいけれども私は金がないからあげることができない,と言いました。
確かにKは自分には金がないと言っています。でもこれはたぶん,自身の困窮を意識した発言ではないのです。
この一件は哲学的に考察できます。
高価で丈夫な傘を置き忘れてしまうのではないかというのは,感情affectusとしてみれば僕がいう不安metusです。第三部諸感情の定義一三にあるように,未来のものの観念ideaから発生する不確かな悲しみtristitiaだからです。安価なビニール傘を持ち歩くことは,この不安を軽減するのに役立つでしょう。なぜなら,高価な傘を失う悲しみより安価な傘を失う悲しみの方がより小さな悲しみであるからです。ところで,スピノザの哲学における善悪は,比較の上でいわれます。よってより小さな悲しみによってより大きな悲しみを避け得るのであれば,より小さな悲しみは,それ自体では第四部定理八にあるように悪malumといわれなければなりませんが,より大きな悲しみすなわちより大なる悪と比較したなら善bonumです。つまり丈夫な傘の代替にビニール傘を持ち歩くことは,一見するとより大なる悪を避けるための善なる行動と思えます。
ところが,それを感情としてではなく,単に観念としてみた場合には様相が異なります。高価な傘であろうと安価な傘であろうと自分がそれを忘れてなくすことは,観念としていえば表象の種類のうち想像に該当する表象像imagoです。第二部定理四九は,観念は観念である限りにおいて必然的に意志作用volitioを含んでいることを意味します。これは,その観念が十全な観念idea adaequataであろうと,この場合の表象像のような混乱した観念idea inadaequataであろうと同じです。したがって,自分が傘を置き忘れてなくすことを想像することのうちには,自分自身に対して傘を置き忘れることを肯定するような意志作用が含まれていることになります。このような意志作用が,実際に傘を置き忘れないようにするために,むしろ逆効果であることは明白でしょう。なぜなら,傘を置き忘れないようにするために効果的な意志作用が存在するとするなら,それは傘を置き忘れることを自分自身に対して否定するような意志作用でなければならないからです。これでみれば分かるように,傘を置き忘れることを肯定する意志作用は,むしろ実際に置き忘れてしまうことに対して貢献するような意志作用であるといえます。
こうした考察から,一般的結論を導くことができます。