残り時間が切迫していた先手は⑭-1の第2図から☗6八王と逃げました。
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今回は特別にこの将棋だけと関連するわけではないことを書きます。
⑭-1の第2図で☗8八同金と取ると後手は先手玉を詰ませるほかなく,詰めば後手の勝ち,詰まなければ先手の勝ちで将棋は間もなく終わります。一方,第1図は先手玉に詰みはなく,後手玉が詰めろです。後手には手段があるので先手の勝ちという局面ではありませんが先手の負けでもありません。つまり勝負の結論は出ません。もし☗8八同金の変化で先手玉が詰まないということを短時間で読み切れなければ,当然先手は☗6八王と指します。1分の考慮で☗6八王が指された背景はおそらくそういうことで,この限りにおいて先手は最善の選択をしていると僕は解します。負けかもしれないなら結論を引き延ばす方が得策だからです。
しかしもし☗8八同金で詰まないのなら,明快な勝ちを逃したという意味で☗6八王は疑問手とか悪手といわれ得るでしょう。ただ,最善の選択をしているのにその手を悪手とか疑問手というのは僕は釈然としません。よって僕はこの手を悪手とも疑問手とも判断しません。
一方,コンピュータソフトは詰むか詰まないかに関しては短時間ですべてを読み切れると前提するなら,ソフトによる☗6八王は悪手とか疑問手といい得ることになります。したがって与えられた条件によって,何が最善の選択であるのかということや,どの手が悪手や疑問手かということも実は異なるのだと僕は思っています。
もし⑭-1の第2図のような複雑な局面は人間は短時間で読み切ることができないということが将棋というゲームの本質に含まれるなら,すべてを読み切ることを前提としたソフトの将棋とは本質が異なります。本質が異なるというのはゲームが異なるというのと同じことです。僕はこのことが将棋の本質に含まれるとまでは思いませんから,この意味において人間の将棋とソフトの将棋が異なったゲームであるとも思いません。ですが,この意味においてもソフトの将棋と人間の将棋というのは,同じ将棋という名前の異なったゲームであるという見解を有する人がいたとしても,それを全面的には否定することができないだろうと考えています。
こういう対処法を実践するにあたって注意しておかなければならないのは,仮定の部分です。すなわちこの対処法は,発生の可能性があると思われる事象を回避することが自身の力potentiaのうちにあると確知できる場合には有効なのですが,そうでない場合にはあまり効果的ではありません。第四部定理三から分かるように,現実的に存在する人間の力Vis, qua homo in existendoは大きく制限されているlimitataので,僕たち自身に生じる事象としては,僕たち自身の力のうちにはないことの方がずっと多いですから,この対処法はきわめて限定的な意味で有効だといわなければなりません。
僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなって何かを認識するというとき,僕たちは理性ratioを行使していることになります。したがって理性は僕たち自身の力のうちにあります。なので,僕たちの力のうちにないことに対処する場合には,理性の出番ということになります。ですが第四部定理三自体は,僕たちがこのような仕方で事象に対処していくことは困難であるということを示すでしょう。ただし,困難であるということは不可能であるということを意味するわけではありません。僕たちの現実的本性actualis essentiaは必然的にほかのものの現実的本性によって凌駕されてしまうsuperaturので,絶対的な意味においてこうした対処が可能であることにはなりませんが,部分的には適切な対処が可能です。
感情の抑制が感情affectusによってしか可能ではないこと,つまり理性によって感情を抑制することが不可能であるということは第四部定理七が示している通りです。しかし理性によって適切な対処をすることが部分的にではあれ可能であるのは,僕たちには理性から生じる感情,すなわち能動的な感情も存在するからです。これは第三部定理五九から明らかです。したがって,理性から生じる欲望cupiditasあるいは喜びlaetitiaが,受動的な感情に対してより大きな相反する感情であることができるなら,僕たちはこの対処法によって受動感情を抑制することができるのです。その結果として,第四部定理六三系にあるように,僕たちは善bonumに就くことができ,同時に悪malumを避けることができるようになるでしょう。
この対処法が適切であるというのには,別の意味も含まれています。
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今回は特別にこの将棋だけと関連するわけではないことを書きます。
⑭-1の第2図で☗8八同金と取ると後手は先手玉を詰ませるほかなく,詰めば後手の勝ち,詰まなければ先手の勝ちで将棋は間もなく終わります。一方,第1図は先手玉に詰みはなく,後手玉が詰めろです。後手には手段があるので先手の勝ちという局面ではありませんが先手の負けでもありません。つまり勝負の結論は出ません。もし☗8八同金の変化で先手玉が詰まないということを短時間で読み切れなければ,当然先手は☗6八王と指します。1分の考慮で☗6八王が指された背景はおそらくそういうことで,この限りにおいて先手は最善の選択をしていると僕は解します。負けかもしれないなら結論を引き延ばす方が得策だからです。
しかしもし☗8八同金で詰まないのなら,明快な勝ちを逃したという意味で☗6八王は疑問手とか悪手といわれ得るでしょう。ただ,最善の選択をしているのにその手を悪手とか疑問手というのは僕は釈然としません。よって僕はこの手を悪手とも疑問手とも判断しません。
一方,コンピュータソフトは詰むか詰まないかに関しては短時間ですべてを読み切れると前提するなら,ソフトによる☗6八王は悪手とか疑問手といい得ることになります。したがって与えられた条件によって,何が最善の選択であるのかということや,どの手が悪手や疑問手かということも実は異なるのだと僕は思っています。
もし⑭-1の第2図のような複雑な局面は人間は短時間で読み切ることができないということが将棋というゲームの本質に含まれるなら,すべてを読み切ることを前提としたソフトの将棋とは本質が異なります。本質が異なるというのはゲームが異なるというのと同じことです。僕はこのことが将棋の本質に含まれるとまでは思いませんから,この意味において人間の将棋とソフトの将棋が異なったゲームであるとも思いません。ですが,この意味においてもソフトの将棋と人間の将棋というのは,同じ将棋という名前の異なったゲームであるという見解を有する人がいたとしても,それを全面的には否定することができないだろうと考えています。
こういう対処法を実践するにあたって注意しておかなければならないのは,仮定の部分です。すなわちこの対処法は,発生の可能性があると思われる事象を回避することが自身の力potentiaのうちにあると確知できる場合には有効なのですが,そうでない場合にはあまり効果的ではありません。第四部定理三から分かるように,現実的に存在する人間の力Vis, qua homo in existendoは大きく制限されているlimitataので,僕たち自身に生じる事象としては,僕たち自身の力のうちにはないことの方がずっと多いですから,この対処法はきわめて限定的な意味で有効だといわなければなりません。
僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなって何かを認識するというとき,僕たちは理性ratioを行使していることになります。したがって理性は僕たち自身の力のうちにあります。なので,僕たちの力のうちにないことに対処する場合には,理性の出番ということになります。ですが第四部定理三自体は,僕たちがこのような仕方で事象に対処していくことは困難であるということを示すでしょう。ただし,困難であるということは不可能であるということを意味するわけではありません。僕たちの現実的本性actualis essentiaは必然的にほかのものの現実的本性によって凌駕されてしまうsuperaturので,絶対的な意味においてこうした対処が可能であることにはなりませんが,部分的には適切な対処が可能です。
感情の抑制が感情affectusによってしか可能ではないこと,つまり理性によって感情を抑制することが不可能であるということは第四部定理七が示している通りです。しかし理性によって適切な対処をすることが部分的にではあれ可能であるのは,僕たちには理性から生じる感情,すなわち能動的な感情も存在するからです。これは第三部定理五九から明らかです。したがって,理性から生じる欲望cupiditasあるいは喜びlaetitiaが,受動的な感情に対してより大きな相反する感情であることができるなら,僕たちはこの対処法によって受動感情を抑制することができるのです。その結果として,第四部定理六三系にあるように,僕たちは善bonumに就くことができ,同時に悪malumを避けることができるようになるでしょう。
この対処法が適切であるというのには,別の意味も含まれています。