スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

たちあおい賞争奪戦&第三部定理四九の意味

2018-02-20 19:01:26 | 競輪
 静岡記念の決勝。並びは吉田‐平原‐神山の関東,和田に成田,古性‐村上の近畿,取鳥に大槻。
 吉田,和田,神山の3人がスタートを取りにいき,誘導の後ろには最内の吉田が入ってそのまま前受け。4番手に和田,6番手に取鳥,8番手に古性の周回に。残り3周のホームの出口から早くも古性が上昇。バックで吉田を叩いて誘導の後ろに入りました。コーナーでは和田も上昇。ホームで古性を叩き,誘導の後ろは和田に。この外を取鳥が上昇。吉田も続こうとしましたが古性がうまく阻み,バックでは取鳥が前に出て,3番手に古性,5番手が内の和田と外の吉田で併走のような隊列となって打鐘。外併走から吉田が発進していったものの,1コーナー付近で古性が牽制。バックに入って古性が捲っていくと吉田は失速したので平原が自力で発進。大槻の牽制をかいくぐった古性がバックで捲ると大槻は村上と競り,さらにその外まで追い上げた平原と3人が併走するような形に。この競り合いを尻目に古性がそのまま粘って優勝。大槻の牽制を耐え抜いた村上が4分の3車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。4分の3車身差の3着は後ろから内目を回って追い上げた和田,取鳥マークの大槻,和田マークの成田,捲り切れなかった平原,平原マークの神山による争い。これを制したのは神山。大槻が8分の1車輪差の4着。平原は4分の1車輪差で5着。和田が8分の1車輪差の6着で成田がさらに8分の1車輪差の7着。
 優勝した大阪の古性優作選手は昨年10月に久留米で開催された熊本記念以来の優勝で記念競輪4勝目。静岡記念は初優勝。このレースは平原に任された吉田が,先行するか先行できずとも早めに巻き返していくだろうから平原が有利と想定していました。ところが各ラインが吉田の動きをマークするような競走になったため,吉田は発進はしたものの展開的にはかなり無理な競走に。誘導が退避する前から目まぐるしく隊列が変化したことで,吉田は経験不足を露呈するようなレースになりました。古性もまた若い選手で,吉田ほどではなくてもレース経験が豊富というわけではないのですが,とてもうまく立ち回って絶好の位置を確保。その競走の巧みさが結果に表れたというレースであったように思います。これだけ上手に立ち回れるのなら,ビッグを制覇するのもそう遠いことではないのではないでしょうか。

 第三部定理四九では自由libertasと強制という意味での必然が対置されているのですが,自己の本性naturaの必然性necessitasによって存在しまた働くagere自由と必然は調和し,それらが意志voluntasと対置されると解した方が,この定理Propositioのスピノザの哲学に則した真の意味を理解しやすいと僕は思います。一方,自由と意志が調和し,それが必然と対置するという認識cognitioのあり方が主流であるということから,今度はこの定理の裏の意味が出てくるのです。
                                
 この定理では,自由であると表象するimaginariもの,といういい方がされています。これは真の意味に則していうと,第一部定理一七系二により,自由であるのは神Deusだけである,いい換えればたとえば人間は自由ではないのですが,もしもたとえば人間を自由なものとみなすならという意味になります。ですがこのときに,たとえば人間が自由な意志の主体であるというようにみなしたとしても,その人間を自由なものと表象していることになるのです。この場合,自由という語が含む意味は,第一部定義七と異なってきます。というのは人間が自由な意志の主体であるがゆえに自由であると表象することと,人間は人間の本性の必然性によって存在しまた働くものと表象することは違うことだからです。しかし,自由の定義Definitioから逸れる仕方で人間を自由なものと表象しても,第三部定理四九は成立するのです。要するにヤコービFriedrich Heinrich JaobiやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは自由をスピノザとは異なった仕方で解釈していますが,かれらのように解釈する場合にも,真の意味とは異なっているけれどもこの定理は成立するのです。いい換えれば,たとえどのように自由と必然を解釈しようとも,自由なものに対する愛amorや憎しみodiumは,必然的なものに対する愛や憎しみより,その他の条件が同一なら強くなるのです。これがこの定理の裏の意味と僕がいうものです。
 よって,第三部定理四九備考もまた,自由をどのように解釈しようと同じように成立します。すなわち意志を自由なものとみなすなら,人間を意志の主体とみなす限りで人間を自由なものであると表象しているのと同じです。よって人間のことをそう表象するなら,人間はほかのものより相互に対してより強く愛し合いまた憎み合うでしょう。
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