『スピノザ―ナ15号』の高木久夫の論文に指摘されている『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』における捏造の概要は概ね次のようなものです。
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スピノザは独断論者dogmaticiと懐疑論者scepticiの双方を批判するにあたって,独断論者としてはマイモニデスMoses Ben Maimonidesをその代表としました。これに対して懐疑論者の代表とされているのがアルパカルです。
高木はまず,この対応のさせ方が不自然であるとしています。確かにアルパカルの書簡の中には,マイモニデスに対して批判的な内容を有するものが含まれているという事実はあるのですが,マイモニデスがユダヤ教の研究者なら誰でも知っている有名人であるのに対し,アルパカルは研究者の間でもさほど顧みられることがない人物です。マイモニデスが有名な著作を残しているのに対し,アルパカルは書簡は残っていますが著作があるわけではありません。実際にラテン語表記にすら統一性がないのですから,マイモニデスに対してアルパカルを対立させるのが不自然であるとする高木の主張には,合理性があると僕は思います。したがってこの段階において,捏造があったとする高木の主張に正当性があると僕は判断します。
では捏造がどのように行われたと高木がみているのかといえば,それはマイエルLodewijk Meyerによる『聖書解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』に依拠しているということです。『神学・政治論』でアルパカルを扱った部分とマイエルの著作の間には平行記事があって,要するにスピノザはマイエルがアルパカルについて言及したものを,いかにも自身がアルパカルを研究して導き出したものであるかのように使っているということです。
僕はスピノザが独断論者を批判するとき,具体的に独断論者としてイメージされていたのはマイエルではなかったかと思っています。そうであるなら高木が指摘しているようなことをスピノザが行ったという蓋然性は高いと思います。つまり文章の上ではアルパカルを批判しているけれども,実質はマイエルを批判しているということになり得るからです。
このような判断の下に,僕は確かに『神学・政治論』にはある種の捏造があったのだとみます。ただしそれは,『神学・政治論』に対する評価とは別物です。
第四部定理四五に関して付言しておきたいもうひとつのことは,これはあくまでも理性的な立場から,いい換えれば自由の人homo liberの立場からいわれているということです。このことは定理Propositioは真理veritasを明らかにするものであり,真理は万人に共通するということ,そしてそのためには第四部定理三五により,すべての人間が理性ratioに従う限りで本性naturaが一致していなければならないということから明らかです。ですがこの定理の場合についていえば,定理一般が含んでいる事柄とは異なった観点から,あくまでも理性的にいわれているということに注意する必要があります。というのもスピノザは第四部定理四系では,現実的に存在する人間は必然的にnecessario受動passioに隷属するものであるといっているからです。
憎しみodiumは第三部諸感情の定義七により悲しみtristitiaの一種です。そして第三部定理五九によって,人間は悲しみを感じているときには受動に隷属していることになります。もちろんこの定理は,能動的な喜びlaetitiaと欲望cupiditasはあるといっているのであり,基本感情affectus primariiのうちそのふたつは必然的に能動actioに属するといっているのではありません。いい換えれば悲しみは必然的に受動ですが,喜びや欲望もまた受動であり得ます。ですから第四部定理四系は,人間が必然的に悲しみに隷属するといっているわけではありません。ですが必然的に受動に隷属するなら,悲しみに隷属することも当然ながらあります。おおよそ悲しみを感じたことがないという人は存在しない筈で,これはむしろ経験的に明らかであるといっていいでしょう。
次に,憎しみは悲しみの一種であるので,悲しみに隷属することが憎しみに隷属することと直結するわけではありません。もっと限定すれば,他人に対する憎しみと直結するわけではありません。なので悲しみは感じたことがあるけれども,他人に対する憎しみを感じたことがないという人が絶対にいないとは僕はいいません。ですが必然的に受動に隷属するのであれば,他人に対する憎しみに隷属する場合もあると解しておいた方がよいと僕は思います。そして第四部定理四五は,そのような意味において,つまりそれを踏まえて,憎しみは善bonumではあり得ないといっているのです。
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スピノザは独断論者dogmaticiと懐疑論者scepticiの双方を批判するにあたって,独断論者としてはマイモニデスMoses Ben Maimonidesをその代表としました。これに対して懐疑論者の代表とされているのがアルパカルです。
高木はまず,この対応のさせ方が不自然であるとしています。確かにアルパカルの書簡の中には,マイモニデスに対して批判的な内容を有するものが含まれているという事実はあるのですが,マイモニデスがユダヤ教の研究者なら誰でも知っている有名人であるのに対し,アルパカルは研究者の間でもさほど顧みられることがない人物です。マイモニデスが有名な著作を残しているのに対し,アルパカルは書簡は残っていますが著作があるわけではありません。実際にラテン語表記にすら統一性がないのですから,マイモニデスに対してアルパカルを対立させるのが不自然であるとする高木の主張には,合理性があると僕は思います。したがってこの段階において,捏造があったとする高木の主張に正当性があると僕は判断します。
では捏造がどのように行われたと高木がみているのかといえば,それはマイエルLodewijk Meyerによる『聖書解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』に依拠しているということです。『神学・政治論』でアルパカルを扱った部分とマイエルの著作の間には平行記事があって,要するにスピノザはマイエルがアルパカルについて言及したものを,いかにも自身がアルパカルを研究して導き出したものであるかのように使っているということです。
僕はスピノザが独断論者を批判するとき,具体的に独断論者としてイメージされていたのはマイエルではなかったかと思っています。そうであるなら高木が指摘しているようなことをスピノザが行ったという蓋然性は高いと思います。つまり文章の上ではアルパカルを批判しているけれども,実質はマイエルを批判しているということになり得るからです。
このような判断の下に,僕は確かに『神学・政治論』にはある種の捏造があったのだとみます。ただしそれは,『神学・政治論』に対する評価とは別物です。
第四部定理四五に関して付言しておきたいもうひとつのことは,これはあくまでも理性的な立場から,いい換えれば自由の人homo liberの立場からいわれているということです。このことは定理Propositioは真理veritasを明らかにするものであり,真理は万人に共通するということ,そしてそのためには第四部定理三五により,すべての人間が理性ratioに従う限りで本性naturaが一致していなければならないということから明らかです。ですがこの定理の場合についていえば,定理一般が含んでいる事柄とは異なった観点から,あくまでも理性的にいわれているということに注意する必要があります。というのもスピノザは第四部定理四系では,現実的に存在する人間は必然的にnecessario受動passioに隷属するものであるといっているからです。
憎しみodiumは第三部諸感情の定義七により悲しみtristitiaの一種です。そして第三部定理五九によって,人間は悲しみを感じているときには受動に隷属していることになります。もちろんこの定理は,能動的な喜びlaetitiaと欲望cupiditasはあるといっているのであり,基本感情affectus primariiのうちそのふたつは必然的に能動actioに属するといっているのではありません。いい換えれば悲しみは必然的に受動ですが,喜びや欲望もまた受動であり得ます。ですから第四部定理四系は,人間が必然的に悲しみに隷属するといっているわけではありません。ですが必然的に受動に隷属するなら,悲しみに隷属することも当然ながらあります。おおよそ悲しみを感じたことがないという人は存在しない筈で,これはむしろ経験的に明らかであるといっていいでしょう。
次に,憎しみは悲しみの一種であるので,悲しみに隷属することが憎しみに隷属することと直結するわけではありません。もっと限定すれば,他人に対する憎しみと直結するわけではありません。なので悲しみは感じたことがあるけれども,他人に対する憎しみを感じたことがないという人が絶対にいないとは僕はいいません。ですが必然的に受動に隷属するのであれば,他人に対する憎しみに隷属する場合もあると解しておいた方がよいと僕は思います。そして第四部定理四五は,そのような意味において,つまりそれを踏まえて,憎しみは善bonumではあり得ないといっているのです。