第29期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は清水市代女流六段が2勝,渡部愛女流二段が3勝。
振駒で清水六段が先手となり相掛かり。中盤が長い将棋でしたが,最後は駒損の後手が攻めきれるか,先手が受けきれるかという勝負になりました。
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後手が3四の馬を寄った局面。ここで先手は☗6六歩☖同金☗5五銀打と進めました。同じ受けるにしても強気な受け方で,一局の命運を託した手順であったといえそうです。
☖6七金☗同王☖6六歩☗5八王までは後手としてもこう進めるほかありません。そこで☖3八歩と打ちましたが,これは軽妙な一着であったと思います。
取ってしまうと☖3七歩と打たれ,飛車を逃げれば銀を2枚取られることになるので逃げるほかないところ。☗6九飛と逃げた方がよかったのかもしれませんが☗7九飛と最も遠いところまで逃げました。
これに対して☖6七桂と打つのは異筋の面があり,発想しにくい手ではないかと思うのですが,この将棋では好手でした。横に逃げれば飛車が取られる手順に進むので☗7六飛。そこで☖5九桂成とただのところに成りました。
☗同王は☖6七歩成で厳しいとみての☗4八王であったと思いますが,そこで☖5五馬☗同銀と銀を入手して☖3九銀の王手馬取りが掛かりました。
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☗5九王なら難解だったというコメントがありますが,☖6七歩成が詰めろで先手が受けたときに後手は馬を取ることができるので,やはり後手が勝てるのではないかと思います。実戦は☗3八王でしたが,これも実戦のように進めて後手の勝ちでした。
渡部二段が挑戦者に。タイトル戦は初出場。第一局は5月9日です。
正当と不当が,第一に事物に備わった性質ではなく事物を認識する人間に依存するものであること,したがって異なった人間が同じ事物について不当だと認識する場合もあれば正当だと認識する場合もあり得ることと,第二に正当と不当は,単にある事物についての認識cognitioに伴って生じるような概念notioではなく,必ず複数の事物が認識され,それが比較された上で正当と認識されたり不当と認識されたりするという点に留意して,ある悲しみtristitiaが正当とみなされたり不当とみなされたりする場合について考察していかなければなりません。よって,たとえばある人間に対する憎しみodiumが正当であると認識されるならされるで,これはだれがどのような比較の上でそれを正当であると認識しているかということを考察することが重要なのです。
そこでもしある人間が何らかの悲しみを感じ,その悲しみが正当であると認識していると仮定してみましょう。この場合は,だれが悲しみを正当であると認識しているかということはすでに答えが出ています。もちろんそれは悲しんでいる当人です。ですからこの場合にも,たとえばこの人間が悲しんでいることを表象した別の人が,この悲しみは正当なものではない,いい換えればこの人はこのようなことで悲しみを感じる必要はないと認識する場合もあり得ます。そのとき,悲しんでいることを表象している人は,何か別のことと比較した上で,その悲しみを正当ではないすなわち不当であると認識しているのです。それはその人が悲しんでいる事柄について,その人と自分を比較しているのかもしれませんし,あるいはその事柄を別の事柄と比較しているのかもしれません。またこれらとは別の比較が成立していることもあるでしょう。このとき,ある種の比較は排他的思想と結び付きやすいと僕は考えますが,これについては後に説明することになるでしょう。
それより先に,悲しんでいる当人がそれを正当と認識する場合に,何と比較された上で正当と認識されているかについての私見を述べておきます。というのは,このような認識の場合は,悲しみが別の悲しみと比較されて正当であると認識される場合は稀であると思われるからです。
振駒で清水六段が先手となり相掛かり。中盤が長い将棋でしたが,最後は駒損の後手が攻めきれるか,先手が受けきれるかという勝負になりました。
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後手が3四の馬を寄った局面。ここで先手は☗6六歩☖同金☗5五銀打と進めました。同じ受けるにしても強気な受け方で,一局の命運を託した手順であったといえそうです。
☖6七金☗同王☖6六歩☗5八王までは後手としてもこう進めるほかありません。そこで☖3八歩と打ちましたが,これは軽妙な一着であったと思います。
取ってしまうと☖3七歩と打たれ,飛車を逃げれば銀を2枚取られることになるので逃げるほかないところ。☗6九飛と逃げた方がよかったのかもしれませんが☗7九飛と最も遠いところまで逃げました。
これに対して☖6七桂と打つのは異筋の面があり,発想しにくい手ではないかと思うのですが,この将棋では好手でした。横に逃げれば飛車が取られる手順に進むので☗7六飛。そこで☖5九桂成とただのところに成りました。
☗同王は☖6七歩成で厳しいとみての☗4八王であったと思いますが,そこで☖5五馬☗同銀と銀を入手して☖3九銀の王手馬取りが掛かりました。
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☗5九王なら難解だったというコメントがありますが,☖6七歩成が詰めろで先手が受けたときに後手は馬を取ることができるので,やはり後手が勝てるのではないかと思います。実戦は☗3八王でしたが,これも実戦のように進めて後手の勝ちでした。
渡部二段が挑戦者に。タイトル戦は初出場。第一局は5月9日です。
正当と不当が,第一に事物に備わった性質ではなく事物を認識する人間に依存するものであること,したがって異なった人間が同じ事物について不当だと認識する場合もあれば正当だと認識する場合もあり得ることと,第二に正当と不当は,単にある事物についての認識cognitioに伴って生じるような概念notioではなく,必ず複数の事物が認識され,それが比較された上で正当と認識されたり不当と認識されたりするという点に留意して,ある悲しみtristitiaが正当とみなされたり不当とみなされたりする場合について考察していかなければなりません。よって,たとえばある人間に対する憎しみodiumが正当であると認識されるならされるで,これはだれがどのような比較の上でそれを正当であると認識しているかということを考察することが重要なのです。
そこでもしある人間が何らかの悲しみを感じ,その悲しみが正当であると認識していると仮定してみましょう。この場合は,だれが悲しみを正当であると認識しているかということはすでに答えが出ています。もちろんそれは悲しんでいる当人です。ですからこの場合にも,たとえばこの人間が悲しんでいることを表象した別の人が,この悲しみは正当なものではない,いい換えればこの人はこのようなことで悲しみを感じる必要はないと認識する場合もあり得ます。そのとき,悲しんでいることを表象している人は,何か別のことと比較した上で,その悲しみを正当ではないすなわち不当であると認識しているのです。それはその人が悲しんでいる事柄について,その人と自分を比較しているのかもしれませんし,あるいはその事柄を別の事柄と比較しているのかもしれません。またこれらとは別の比較が成立していることもあるでしょう。このとき,ある種の比較は排他的思想と結び付きやすいと僕は考えますが,これについては後に説明することになるでしょう。
それより先に,悲しんでいる当人がそれを正当と認識する場合に,何と比較された上で正当と認識されているかについての私見を述べておきます。というのは,このような認識の場合は,悲しみが別の悲しみと比較されて正当であると認識される場合は稀であると思われるからです。