第20回中山グランドジャンプ。
発走直後はメイショウアラワシ,オジュウチョウサン,クランモンタナ,アップトゥデイトの4頭が集団で先行。1周目の正面に入るとこの中からアップトゥデイトが抜け出して単独の逃げ。オジュウチョウサンが2番手に。この後,マイネルクロップが徐々に上昇してきて1周目の2コーナーで3番手まで上がると最初の大障害コースではアップトゥデイト,オジュウチョウサン,マイネルクロップの3頭が集団に。大障害コースを出るとアップトゥデイトとマイネルクロップが抜けて控えたオジュウチョウサンが3番手。4コーナーから3コーナーにかけてのコーナーワークでアップトゥデイトがマイネルクロップの前に出ると向正面では単独の先頭を奪い返しました。3番手がオジュウチョウサン,4番手にクランモンタナ,5番手がシンキングダンサー,6番手がニホンピロバロンという隊列に。
このまま2回目の大障害コースを通過。1コーナーではオジュウチョウサンが2番手に上がり,内を回ってきたニホンピロバロンが3番手。マイネルクロップとクランモンタナは離され始め,外からシンキングダンサーが上昇。ただ前の3頭との差は向正面に入っても詰まらず,この時点で前3頭の争いに。3コーナーを回るとオジュウチョウサンがアップトゥデイトを抜いて先頭に。ここからはワンサイドで後続との差を広げていき,従来のタイムを3秒6も更新する破格のレコードで優勝。絡んできたマイネルクロップが殿負けを喫している上に直線に入る前に抜かれてしまったアップトゥデイトには非常に厳しい展開でしたがよく粘って2秒4の大差ながら2着を確保。最後はまたアップトゥデイトに差を広げられる形でニホンピロバロンは9馬身差の3着。
優勝したオジュウチョウサンはここが中山大障害以来の実戦。これで9連勝となる障害重賞9勝目。大レースは5勝目。中山グランドジャンプは第18回,19回に続いての三連覇。昨年暮れの中山大障害はアップトゥデイトに接戦での勝利でしたが,距離が少しでも伸びるのはこちらに有利。ただこちらは久々の実戦だったのに対し,アップトゥデイトは先月の阪神スプリングジャンプを8馬身差で圧勝したように,順調さでは上回っていましたから,逆転というケースもあり得るとは思っていました。大差の決着になったのは,道中のペースが速くなり,それが味方してくれたためでしょう。2着馬も相当に強い馬ですが,こちらもそれをマークする位置でレースを進めていたわけですから,さらに強い馬というのは間違いありません。日本の障害レース史の中でも屈指の名馬でしょう。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。ひとつ上の全兄に2013年にラジオNIKKEI賞を勝ったケイアイチョウサン。
騎乗した石神深一騎手と管理している和田正一郎調教師は共に中山大障害以来の大レース制覇で大レース5勝目。
第四部付録第二四項は憤慨indignatio一般,もっと広く捉えれば憎しみodium一般は社会正義に反するといっていますが,だからといって法律lexはそれを禁ずるべきであるということを主張するのではありません。そのようなことを主張すること自体がスピノザ主義に反するからです。したがってここでいわれていることは,憤慨そのもの,あるいは憎しみそのものというような感情affectusそれ自体のレベルと関係しているのではなく,そうした感情が齎す効果について,それは社会正義に反するすなわち不正injustitiaであるといっているのです。
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ある人Aの憎しみがほかの人Bへと向かうとき,第三部定理二三によりAはBが悲しむこと,いい換えればBが害悪を被ることに喜びlaetitiaを感じます。第三部定理一二によりAはAの喜びを希求するので,Aは積極的にBを悲しませようとするでしょう。これが一般に憎しみが齎す効果で,このことは社会正義に反するとスピノザはいいたいのです。そしてなぜそれが不正であるかといえば,もしそのようなことが各人に許されるのなら,各人に自分が憎む者に害悪を与えることを許すことと同じであるから,それでは社会ないしは国家Civitasにおいて人間は無法の下に生活しているのと同じであるということになるからです。これが第四部付録第二四項が意味するところです。これは逆にいえば,法の下に人が罰せられることがあるとしたら,それは不正ではなくむしろ正義justitiaなのであるということを意味するでしょう。
よって,憎しみが齎す憎む相手に害悪を与えようとすることについては,むしろ法律は否定しなければなりません。それが否定されないのであれば,無法の下に暮らしているのと同じことになってしまうからです。つまりここには社会正義を実現するために法はどのようにあるべきかという観点が明らかに含まれていると僕は考えます。たとえば憎しみによって特定の個人であれ人間集団であれ,それに対して示威的な行動をとるということは,法によって否定されなければならないということになるでしょう。ですからたとえばヘイトスピーチのようなものを法や条例で禁ずることは,スピノザ主義からみると一定の合理性を有していることになると思います。
発走直後はメイショウアラワシ,オジュウチョウサン,クランモンタナ,アップトゥデイトの4頭が集団で先行。1周目の正面に入るとこの中からアップトゥデイトが抜け出して単独の逃げ。オジュウチョウサンが2番手に。この後,マイネルクロップが徐々に上昇してきて1周目の2コーナーで3番手まで上がると最初の大障害コースではアップトゥデイト,オジュウチョウサン,マイネルクロップの3頭が集団に。大障害コースを出るとアップトゥデイトとマイネルクロップが抜けて控えたオジュウチョウサンが3番手。4コーナーから3コーナーにかけてのコーナーワークでアップトゥデイトがマイネルクロップの前に出ると向正面では単独の先頭を奪い返しました。3番手がオジュウチョウサン,4番手にクランモンタナ,5番手がシンキングダンサー,6番手がニホンピロバロンという隊列に。
このまま2回目の大障害コースを通過。1コーナーではオジュウチョウサンが2番手に上がり,内を回ってきたニホンピロバロンが3番手。マイネルクロップとクランモンタナは離され始め,外からシンキングダンサーが上昇。ただ前の3頭との差は向正面に入っても詰まらず,この時点で前3頭の争いに。3コーナーを回るとオジュウチョウサンがアップトゥデイトを抜いて先頭に。ここからはワンサイドで後続との差を広げていき,従来のタイムを3秒6も更新する破格のレコードで優勝。絡んできたマイネルクロップが殿負けを喫している上に直線に入る前に抜かれてしまったアップトゥデイトには非常に厳しい展開でしたがよく粘って2秒4の大差ながら2着を確保。最後はまたアップトゥデイトに差を広げられる形でニホンピロバロンは9馬身差の3着。
優勝したオジュウチョウサンはここが中山大障害以来の実戦。これで9連勝となる障害重賞9勝目。大レースは5勝目。中山グランドジャンプは第18回,19回に続いての三連覇。昨年暮れの中山大障害はアップトゥデイトに接戦での勝利でしたが,距離が少しでも伸びるのはこちらに有利。ただこちらは久々の実戦だったのに対し,アップトゥデイトは先月の阪神スプリングジャンプを8馬身差で圧勝したように,順調さでは上回っていましたから,逆転というケースもあり得るとは思っていました。大差の決着になったのは,道中のペースが速くなり,それが味方してくれたためでしょう。2着馬も相当に強い馬ですが,こちらもそれをマークする位置でレースを進めていたわけですから,さらに強い馬というのは間違いありません。日本の障害レース史の中でも屈指の名馬でしょう。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。ひとつ上の全兄に2013年にラジオNIKKEI賞を勝ったケイアイチョウサン。
騎乗した石神深一騎手と管理している和田正一郎調教師は共に中山大障害以来の大レース制覇で大レース5勝目。
第四部付録第二四項は憤慨indignatio一般,もっと広く捉えれば憎しみodium一般は社会正義に反するといっていますが,だからといって法律lexはそれを禁ずるべきであるということを主張するのではありません。そのようなことを主張すること自体がスピノザ主義に反するからです。したがってここでいわれていることは,憤慨そのもの,あるいは憎しみそのものというような感情affectusそれ自体のレベルと関係しているのではなく,そうした感情が齎す効果について,それは社会正義に反するすなわち不正injustitiaであるといっているのです。
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ある人Aの憎しみがほかの人Bへと向かうとき,第三部定理二三によりAはBが悲しむこと,いい換えればBが害悪を被ることに喜びlaetitiaを感じます。第三部定理一二によりAはAの喜びを希求するので,Aは積極的にBを悲しませようとするでしょう。これが一般に憎しみが齎す効果で,このことは社会正義に反するとスピノザはいいたいのです。そしてなぜそれが不正であるかといえば,もしそのようなことが各人に許されるのなら,各人に自分が憎む者に害悪を与えることを許すことと同じであるから,それでは社会ないしは国家Civitasにおいて人間は無法の下に生活しているのと同じであるということになるからです。これが第四部付録第二四項が意味するところです。これは逆にいえば,法の下に人が罰せられることがあるとしたら,それは不正ではなくむしろ正義justitiaなのであるということを意味するでしょう。
よって,憎しみが齎す憎む相手に害悪を与えようとすることについては,むしろ法律は否定しなければなりません。それが否定されないのであれば,無法の下に暮らしているのと同じことになってしまうからです。つまりここには社会正義を実現するために法はどのようにあるべきかという観点が明らかに含まれていると僕は考えます。たとえば憎しみによって特定の個人であれ人間集団であれ,それに対して示威的な行動をとるということは,法によって否定されなければならないということになるでしょう。ですからたとえばヘイトスピーチのようなものを法や条例で禁ずることは,スピノザ主義からみると一定の合理性を有していることになると思います。