書簡六十三でチルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがシュラーGeorg Hermann Schullerを介して質問した4つの項目のうち,第二の質問に関しては,チルンハウスに何らかの誤解があったのは間違いないと僕は考えます。この誤解がいかなるものであったのかということを,スピノザからの返信である書簡六十四も参考にして,何回かに分けて考察してみます。
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まず,チルンハウスの言い分は,次の3点に分割することができます。
Ⅰ神Deusの知性intellectusと人間の知性は本性essentiaにおいても存在existentiaにおいても異なるので,何ら共通点をもたない。
Ⅱ互いに共通点をもたないものは一方が他方の原因であることはできない。
Ⅲこのゆえに神の知性は人間の知性の原因ではあり得ない。
スピノザはこの質問に対しては,結果は本性の上でも存在の上でも原因と異なるから結果といわれるのであるという意味の返事をしています。これはスピノザがチルンハウスの質問は,あるものが本性の上でも存在の上でも異なるものを原因とすることができるのかという主旨であると解したことを窺わせます。ですが,僕の考えではチルンハウスの質問の主旨は別のところにあったのです。チルンハウスはこれに対して再質問はしていないのですが,おそらくこの解答はチルンハウスを満足させなかったか,さもなければチルンハウスの誤解を強化させただけだったのではないかと思います。
僕の考えでいうと,チルンハウスがいいたかったのは,三分割した部分のうち,③は誤りでなければならぬということです。そして③が誤りであるということについては,スピノザも肯定するという思い込みがチルンハウスにあったのだと思うのです。
奇異に思われるかもしれませんが,僕は寝坊をするとか寝過ごしてしまうといったことにはさほど罪悪感はありません。ですから逆に,だれかが寝坊することによって自分が待たなければならなくなったという場合も,その人をとくに咎める気にはなりません。こうしたことは現実的に存在する人間であれば,だれであれ起こり得ることだと考えているからです。
程度の差はありますが,現実的に存在する人間はだれでもその現実的存在を維持するために睡眠を必要とします。このために自然の秩序ordo naturaeは現実的に存在する人間に対して,その現実的存在を維持するために睡眠を要求します。これを現実的に存在する人間の方からみた場合は,睡眠欲という欲望cupiditasとして規定されることになります。そしてこの欲望には反対感情は存在しません。現実的に存在する人間が睡眠欲に対抗するとすれば,それは自然の秩序に対して知性の秩序で対抗するという意味であり,これは感情affectusではなくて精神の力だからです。
一方,睡眠欲は自然の秩序によって要求されているとはいえ欲望の一種ですから,第三部諸感情の定義一により,その人間の現実的本性actualis essentiaそのものです。いい換えれば第三部定理七によってコナトゥスconatusそのものであって,一種の力potentiaです。このことは,人間が睡眠を必要としているということ,他面からいえば睡眠なしでは現実的存在を維持することが不可能であるということから明らかだといわなければなりません。睡眠なしに現実的存在を維持することができないということは,睡眠欲はそれを感じる人間が,その人間の現実的存在に固執する力であるということにほかならないからです。
このために現実的に存在する人間は,睡眠が量的に足りていない場合には,強い睡眠欲を感じることになります。一般的にはこれは人間の身体corpusがそれを感じていると理解されるでしょうが,欲望は基本感情affectus primariiのひとつで,第三部諸感情の定義三から理解できるように,感情は単に身体に妥当するのではなく精神mensにも妥当します。スピノザの哲学においては現実的に存在するある人間の精神とは,その人間の身体の観念のことなので,身体が欲望しているなら精神も欲望しているのです。
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まず,チルンハウスの言い分は,次の3点に分割することができます。
Ⅰ神Deusの知性intellectusと人間の知性は本性essentiaにおいても存在existentiaにおいても異なるので,何ら共通点をもたない。
Ⅱ互いに共通点をもたないものは一方が他方の原因であることはできない。
Ⅲこのゆえに神の知性は人間の知性の原因ではあり得ない。
スピノザはこの質問に対しては,結果は本性の上でも存在の上でも原因と異なるから結果といわれるのであるという意味の返事をしています。これはスピノザがチルンハウスの質問は,あるものが本性の上でも存在の上でも異なるものを原因とすることができるのかという主旨であると解したことを窺わせます。ですが,僕の考えではチルンハウスの質問の主旨は別のところにあったのです。チルンハウスはこれに対して再質問はしていないのですが,おそらくこの解答はチルンハウスを満足させなかったか,さもなければチルンハウスの誤解を強化させただけだったのではないかと思います。
僕の考えでいうと,チルンハウスがいいたかったのは,三分割した部分のうち,③は誤りでなければならぬということです。そして③が誤りであるということについては,スピノザも肯定するという思い込みがチルンハウスにあったのだと思うのです。
奇異に思われるかもしれませんが,僕は寝坊をするとか寝過ごしてしまうといったことにはさほど罪悪感はありません。ですから逆に,だれかが寝坊することによって自分が待たなければならなくなったという場合も,その人をとくに咎める気にはなりません。こうしたことは現実的に存在する人間であれば,だれであれ起こり得ることだと考えているからです。
程度の差はありますが,現実的に存在する人間はだれでもその現実的存在を維持するために睡眠を必要とします。このために自然の秩序ordo naturaeは現実的に存在する人間に対して,その現実的存在を維持するために睡眠を要求します。これを現実的に存在する人間の方からみた場合は,睡眠欲という欲望cupiditasとして規定されることになります。そしてこの欲望には反対感情は存在しません。現実的に存在する人間が睡眠欲に対抗するとすれば,それは自然の秩序に対して知性の秩序で対抗するという意味であり,これは感情affectusではなくて精神の力だからです。
一方,睡眠欲は自然の秩序によって要求されているとはいえ欲望の一種ですから,第三部諸感情の定義一により,その人間の現実的本性actualis essentiaそのものです。いい換えれば第三部定理七によってコナトゥスconatusそのものであって,一種の力potentiaです。このことは,人間が睡眠を必要としているということ,他面からいえば睡眠なしでは現実的存在を維持することが不可能であるということから明らかだといわなければなりません。睡眠なしに現実的存在を維持することができないということは,睡眠欲はそれを感じる人間が,その人間の現実的存在に固執する力であるということにほかならないからです。
このために現実的に存在する人間は,睡眠が量的に足りていない場合には,強い睡眠欲を感じることになります。一般的にはこれは人間の身体corpusがそれを感じていると理解されるでしょうが,欲望は基本感情affectus primariiのひとつで,第三部諸感情の定義三から理解できるように,感情は単に身体に妥当するのではなく精神mensにも妥当します。スピノザの哲学においては現実的に存在するある人間の精神とは,その人間の身体の観念のことなので,身体が欲望しているなら精神も欲望しているのです。