指宿温泉で指された第31期竜王戦七番勝負第六局。
広瀬章人八段の先手で羽生善治竜王の横歩取り☖3三角。先手の青野流に対して後手が相横歩取りからの飛車角総交換に進め,すぐに激しい戦いに移行しました。
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後手が打った飛車を先手が捕獲したところ。僕にはすでに先手がよいように思えました。
☖8八飛成☗同銀は必然。後手は☖3七角と飛車香両取りに打ちました。
☗8五飛と逃げたのが封じ手。後手は☖7三桂と逃げて☗8二飛成の王手に☖6二桂と受けました。そこで☗2七飛の角桂両取り。
ここで☖4五桂と角を受ければ息長い将棋になったそうです。ただ,局面を長引かせても後手が勝つというのはとても大変に思えますので,やはり先手の方が指しやすかったのではないでしょうか。
実戦は☖1九角成と香車を取ったのですが,これは☗2一飛成☖3一歩のときに☗2八歩で馬を封じ込められ,形勢がはっきりとしました。
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広瀬八段が勝って3勝3敗。第七局は20日と21日です。
スピノザは節制temperantiaすなわち精神mensの力potentiaが,過度の食欲である美味欲luxuriaに対抗する唯一の手段であるといっているわけではありません。ですがこれはそう解釈しておくのが妥当です。僕は食欲には反対感情はあるといいましたが,それは食欲の相反する感情ではあり得ません。一方,食欲に対する相反する感情はあるのですが,これは食欲一般に対する相反する感情であって,食欲が適度であろうと過度であろうと成立します。ここまではすでに僕が説明したことから明らかだと思います。
これに対して,過度な食欲に対抗するというなら,その食欲が過度であることをあらかじめ知っているのでなければ対抗できません。そしてある個別の食欲について,それは過度であるということを十全に認識するなら,その人はそれをその人の理性ratioによって知っていると結論しなければなりません。ですから過度な食欲に対抗するためにはあらかじめ理性的判断が必要とされるのであって,節制はその理性的判断なしにはあり得ないことが明らかだからです。もっともこのことは,節制が精神の力であるということから,自明であるといっていいかもしれません。というのも,観念ideaが十全adaequatumであるか混乱しているかということ,いい換えれば真理veritasであるのか虚偽falsitasであるのかということは,単に真偽の規準だけを意味しているわけではなく,有と無の関係を同時に意味しているというのがスピノザの哲学の基本的なテーゼのひとつであるからです。このとき,有であるものすなわち十全であるものは確かに精神の力であるといい得るでしょうが,無であるものについてそのようにいうのはそれ以上はないような不条理であるからです。むしろ有が力であるのに対していえば,無は無力impotentia以外の何ものでもないでしょう。よって理性的判断なしに食欲に対抗するなら,それが現実的には過度な食欲に対する対抗になっていたとしても,それは精神の力であるどころか精神の無能を示すものです。このような対抗は,この場合にはたまたま過度な食欲への対抗になっているだけであり,適度な食欲に対しても同様に対抗してしまうでしょう。
これで,節制だけが過度な食欲への対抗手段であることは明らかです。
広瀬章人八段の先手で羽生善治竜王の横歩取り☖3三角。先手の青野流に対して後手が相横歩取りからの飛車角総交換に進め,すぐに激しい戦いに移行しました。
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後手が打った飛車を先手が捕獲したところ。僕にはすでに先手がよいように思えました。
☖8八飛成☗同銀は必然。後手は☖3七角と飛車香両取りに打ちました。
☗8五飛と逃げたのが封じ手。後手は☖7三桂と逃げて☗8二飛成の王手に☖6二桂と受けました。そこで☗2七飛の角桂両取り。
ここで☖4五桂と角を受ければ息長い将棋になったそうです。ただ,局面を長引かせても後手が勝つというのはとても大変に思えますので,やはり先手の方が指しやすかったのではないでしょうか。
実戦は☖1九角成と香車を取ったのですが,これは☗2一飛成☖3一歩のときに☗2八歩で馬を封じ込められ,形勢がはっきりとしました。
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広瀬八段が勝って3勝3敗。第七局は20日と21日です。
スピノザは節制temperantiaすなわち精神mensの力potentiaが,過度の食欲である美味欲luxuriaに対抗する唯一の手段であるといっているわけではありません。ですがこれはそう解釈しておくのが妥当です。僕は食欲には反対感情はあるといいましたが,それは食欲の相反する感情ではあり得ません。一方,食欲に対する相反する感情はあるのですが,これは食欲一般に対する相反する感情であって,食欲が適度であろうと過度であろうと成立します。ここまではすでに僕が説明したことから明らかだと思います。
これに対して,過度な食欲に対抗するというなら,その食欲が過度であることをあらかじめ知っているのでなければ対抗できません。そしてある個別の食欲について,それは過度であるということを十全に認識するなら,その人はそれをその人の理性ratioによって知っていると結論しなければなりません。ですから過度な食欲に対抗するためにはあらかじめ理性的判断が必要とされるのであって,節制はその理性的判断なしにはあり得ないことが明らかだからです。もっともこのことは,節制が精神の力であるということから,自明であるといっていいかもしれません。というのも,観念ideaが十全adaequatumであるか混乱しているかということ,いい換えれば真理veritasであるのか虚偽falsitasであるのかということは,単に真偽の規準だけを意味しているわけではなく,有と無の関係を同時に意味しているというのがスピノザの哲学の基本的なテーゼのひとつであるからです。このとき,有であるものすなわち十全であるものは確かに精神の力であるといい得るでしょうが,無であるものについてそのようにいうのはそれ以上はないような不条理であるからです。むしろ有が力であるのに対していえば,無は無力impotentia以外の何ものでもないでしょう。よって理性的判断なしに食欲に対抗するなら,それが現実的には過度な食欲に対する対抗になっていたとしても,それは精神の力であるどころか精神の無能を示すものです。このような対抗は,この場合にはたまたま過度な食欲への対抗になっているだけであり,適度な食欲に対しても同様に対抗してしまうでしょう。
これで,節制だけが過度な食欲への対抗手段であることは明らかです。