第三部諸感情の定義一三説明でいわれていることがなぜ成立するのかを,改めて詳しく説明しておきます。同じことは第三部定理五〇備考でもいわれていますから,そちらの説明も同様になります。
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第三部諸感情の定義一二および第三部諸感情の定義一三から,希望spesと不安metusが反対感情であることは明白です。希望は喜びlaetitiaで不安は悲しみtristitiaですが,希望と不安の相違点はそこだけです。そして喜びと悲しみは第三部諸感情の定義二と第三部諸感情の定義三から分かるように,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行するのか,それとは反対により大なる完全性からより小なる完全性へと移行するのかというのが相違点になります。つまり喜びと悲しみは反対感情です。よって希望と不安も反対感情であることになります。
次に,希望は不確実と認識される観念ideaから生じる不確かな喜びであり,不安は不確実と認識される観念から生じる不確かな悲しみです。それらが不確かな喜びであったり悲しみであったりするのは,それを発生させる観念が不確実だと認識されているからです。これは,認識cognitioが確実であるなら感情は不確かにはなり得ないということから明白でしょう。
よって希望を感じている人は,その喜びが不確実なものであることを同時に知っているので,それが確実に実現されることは希求しますが,実現されないことは忌避するでしょう。ということは忌避したい事柄に対する感情affectusを同時に有しているという意味であり,それは希望を感じている同じものに対する不安にほかなりません。よって希望を感じている人間は同時に不安を感じています。
不安を感じている人間が希望を感じているということは,これと同じ理屈で説明できます。つまりそれが実現することは忌避しますが,実現しないことについては希求するのであり,そうした感情を有していますが,それは希望だからです。
よってある希望を原因causaとして何らかの感情が生じるなら,その感情は同じものに対する不安からも生じるのです。同様にあるものに対する不安から生じる感情は,それに対する希望からも生じるのです。
これで僕が第二部定義七の意味のうちに,個物res singularisの複合の無限連鎖のみならず,個物の分割の無限連鎖も含まれているとする根拠の説明はすべてです。つまり僕は,岩波文庫版旧版の115ページ,新版の139ページから始まる第二部自然学②補助定理七備考は,複合の無限連鎖については肯定しているけれど分割の無限連鎖については否定しているというように読解できるものの,実際にはそうでなく,飛躍をすること自体が目的となっている論理の積み重ねの出発点の仮定が否定していると読解できるだけであり,実際にそれを否定するような,最も単純な物体corpusが存在することをスピノザが肯定しているわけではないと考えるのです。あるいは,もし最も単純な物体が存在すると解するにしても,それはそれ以上は分割することができない物体というわけではないと解します。
もちろんこれには異論もあるでしょう。ただ,複合の無限連鎖については明らかにこの備考Scholiumは肯定しています。一方,「アトム」の存在existentiaを認めないのであれば,たとえ最も単純な物体が存在するということについては肯定するとしても,それ以上は分割することができない物体というのが存在するということを認めるわけにはいきません。「アトム」とは,それ以上は分割することができない物体そのもののことであるからです。ですから最も単純な物体というのが「アトム」を意味するのであるとすれば,単にそれ以上は分割することができない物体の存在を認めないというだけでは不十分で,最も単純な物体も実在しないというべきだと考えます。そしてこれらのことが,第二部定義七のうちに含意されているのだということが,ここでの僕の主張の主旨です。よって僕は第二部定義七の意味を,今後はそこで示した通りに用いることにします。それが実際に定義Definitioの中に含意されていないのだとしても,意味として含まれている事柄についてはスピノザの哲学の中では正しくなければならないということは証明されていますので,僕が何らかの考察をするときにこの意味をもち出したとしても,そこに本当に含意されているかどうかが問題となるだけで,考察そのものの内容に誤謬を来すことはない筈です。
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第三部諸感情の定義一二および第三部諸感情の定義一三から,希望spesと不安metusが反対感情であることは明白です。希望は喜びlaetitiaで不安は悲しみtristitiaですが,希望と不安の相違点はそこだけです。そして喜びと悲しみは第三部諸感情の定義二と第三部諸感情の定義三から分かるように,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行するのか,それとは反対により大なる完全性からより小なる完全性へと移行するのかというのが相違点になります。つまり喜びと悲しみは反対感情です。よって希望と不安も反対感情であることになります。
次に,希望は不確実と認識される観念ideaから生じる不確かな喜びであり,不安は不確実と認識される観念から生じる不確かな悲しみです。それらが不確かな喜びであったり悲しみであったりするのは,それを発生させる観念が不確実だと認識されているからです。これは,認識cognitioが確実であるなら感情は不確かにはなり得ないということから明白でしょう。
よって希望を感じている人は,その喜びが不確実なものであることを同時に知っているので,それが確実に実現されることは希求しますが,実現されないことは忌避するでしょう。ということは忌避したい事柄に対する感情affectusを同時に有しているという意味であり,それは希望を感じている同じものに対する不安にほかなりません。よって希望を感じている人間は同時に不安を感じています。
不安を感じている人間が希望を感じているということは,これと同じ理屈で説明できます。つまりそれが実現することは忌避しますが,実現しないことについては希求するのであり,そうした感情を有していますが,それは希望だからです。
よってある希望を原因causaとして何らかの感情が生じるなら,その感情は同じものに対する不安からも生じるのです。同様にあるものに対する不安から生じる感情は,それに対する希望からも生じるのです。
これで僕が第二部定義七の意味のうちに,個物res singularisの複合の無限連鎖のみならず,個物の分割の無限連鎖も含まれているとする根拠の説明はすべてです。つまり僕は,岩波文庫版旧版の115ページ,新版の139ページから始まる第二部自然学②補助定理七備考は,複合の無限連鎖については肯定しているけれど分割の無限連鎖については否定しているというように読解できるものの,実際にはそうでなく,飛躍をすること自体が目的となっている論理の積み重ねの出発点の仮定が否定していると読解できるだけであり,実際にそれを否定するような,最も単純な物体corpusが存在することをスピノザが肯定しているわけではないと考えるのです。あるいは,もし最も単純な物体が存在すると解するにしても,それはそれ以上は分割することができない物体というわけではないと解します。
もちろんこれには異論もあるでしょう。ただ,複合の無限連鎖については明らかにこの備考Scholiumは肯定しています。一方,「アトム」の存在existentiaを認めないのであれば,たとえ最も単純な物体が存在するということについては肯定するとしても,それ以上は分割することができない物体というのが存在するということを認めるわけにはいきません。「アトム」とは,それ以上は分割することができない物体そのもののことであるからです。ですから最も単純な物体というのが「アトム」を意味するのであるとすれば,単にそれ以上は分割することができない物体の存在を認めないというだけでは不十分で,最も単純な物体も実在しないというべきだと考えます。そしてこれらのことが,第二部定義七のうちに含意されているのだということが,ここでの僕の主張の主旨です。よって僕は第二部定義七の意味を,今後はそこで示した通りに用いることにします。それが実際に定義Definitioの中に含意されていないのだとしても,意味として含まれている事柄についてはスピノザの哲学の中では正しくなければならないということは証明されていますので,僕が何らかの考察をするときにこの意味をもち出したとしても,そこに本当に含意されているかどうかが問題となるだけで,考察そのものの内容に誤謬を来すことはない筈です。