塩田温泉で指された昨日の第30期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は渡部愛女流王位が3勝,里見香奈女流名人が2勝。
振駒で里見名人が先手となり5筋位取り中飛車。小競り合いの後で後手の渡部王位が穴熊に囲うという持久戦になりました。後手が中途半端な状況で仕掛けたように僕には思えたのですが,仕掛けは成立していたようです。
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後手が飛車を成り込んで先手が底歩を打った局面。
ここでは☖8二龍と受けに回るのがよく,それなら先手は攻めの継続が難しかったとのことです。
実戦は☖7五角打と攻め合いに出ました。後手がどう指してこようと先手は攻めるとすれば手順は決まっています。それが☗2一銀成☖同王に☗5六桂で,実際にそう進みました。これは受けていては勝つことはできないと判断したものでしょう。
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後手が7五に角を打った意味は,この局面で☖3七角成☗同金☖4八角成☗同金☖5九龍と攻め合えば勝てるということだったよう。ただ☖3七角成☗同玉☖5五金☗4四桂で勝てないと判断してしまいました。しかし実際にはその順で後手に勝ち筋があったようです。
これは大きな判断ミスで,第2図から☖4二角☗同と☖同角で受けに回りました。ただこれは先手玉に対する攻め筋が消えてしまったため,これ以降は後手にとって勝ち味が薄い将棋になってしまいました。
里見名人が先勝。第二局は来月8日です。
スピノザの哲学では,ある事物が知性intellectusのうちに,いい換えれば観念ideaとしてある場合には,その事物が客観的にobjectiveあるといわれます。これに対してその事物が知性の外にある場合には,形相的にformaliterあるといわれます。真理一般veritasは真の観念idea veraの集積なのですから,第二部定理四三は,明らかに真理は観念としてある,客観的有esse objectivumとしてあるといっているように解せます。僕はこれについてはそのように解しても構わないし,そうではなく,真理というのは客観的有としてもあるけれども,形相的有esse formaleとしてもあるのだと解しても構わないと考えています。この見解についてここで説明しておきたいのです。
Xが形相的有として,つまり知性の外に実在するとき,このXには固有の本性があります。これは第二部定義二の意味から明白であるといわなければなりません。Xの実在を必然的にnecessario定立するのはXの本性をおいてほかにはなく,逆にXの本性が除去されてしまえばXの存在existentiaも除去されてしまうからです。ここではこうした本性のことを,Xの形相的本性essentia formalisといっておきます。スピノザは『エチカ』ではあまりこの語を用いませんが,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』では使用されていて,それは概ねこれから示すような意味を有しています。
このXの形相的本性は観念の対象ideatumになります。このとき,Xの観念がXの形相的本性に一致すると,それはXの真の観念であることになります。第一部公理六はそのようないい方こそしていませんが,『エチカ』に『知性改善論』をミックスさせると,この公理Axiomaは実はこのような意味を有していると解するのが妥当だと僕は考えます。しかるに真理というのが真の観念の集積であって,Xの形相的本性と一致する観念がXの真の観念であるなら,この形相的本性をXの真理とみなしても構わないと僕は考えるのです。したがって,もし真理というのが知性を離れて形相的有として存在するということを肯定する場合には,各々の事物の形相的本性が,各々の事物の真理であるというのが妥当だと考えます。
ただし,形相的本性というのは形相的な事物だけが特有に有する本性ではありません。客観的有いい換えれば事物の観念にも,この意味での形相的本性はあるのです。
振駒で里見名人が先手となり5筋位取り中飛車。小競り合いの後で後手の渡部王位が穴熊に囲うという持久戦になりました。後手が中途半端な状況で仕掛けたように僕には思えたのですが,仕掛けは成立していたようです。
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後手が飛車を成り込んで先手が底歩を打った局面。
ここでは☖8二龍と受けに回るのがよく,それなら先手は攻めの継続が難しかったとのことです。
実戦は☖7五角打と攻め合いに出ました。後手がどう指してこようと先手は攻めるとすれば手順は決まっています。それが☗2一銀成☖同王に☗5六桂で,実際にそう進みました。これは受けていては勝つことはできないと判断したものでしょう。
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後手が7五に角を打った意味は,この局面で☖3七角成☗同金☖4八角成☗同金☖5九龍と攻め合えば勝てるということだったよう。ただ☖3七角成☗同玉☖5五金☗4四桂で勝てないと判断してしまいました。しかし実際にはその順で後手に勝ち筋があったようです。
これは大きな判断ミスで,第2図から☖4二角☗同と☖同角で受けに回りました。ただこれは先手玉に対する攻め筋が消えてしまったため,これ以降は後手にとって勝ち味が薄い将棋になってしまいました。
里見名人が先勝。第二局は来月8日です。
スピノザの哲学では,ある事物が知性intellectusのうちに,いい換えれば観念ideaとしてある場合には,その事物が客観的にobjectiveあるといわれます。これに対してその事物が知性の外にある場合には,形相的にformaliterあるといわれます。真理一般veritasは真の観念idea veraの集積なのですから,第二部定理四三は,明らかに真理は観念としてある,客観的有esse objectivumとしてあるといっているように解せます。僕はこれについてはそのように解しても構わないし,そうではなく,真理というのは客観的有としてもあるけれども,形相的有esse formaleとしてもあるのだと解しても構わないと考えています。この見解についてここで説明しておきたいのです。
Xが形相的有として,つまり知性の外に実在するとき,このXには固有の本性があります。これは第二部定義二の意味から明白であるといわなければなりません。Xの実在を必然的にnecessario定立するのはXの本性をおいてほかにはなく,逆にXの本性が除去されてしまえばXの存在existentiaも除去されてしまうからです。ここではこうした本性のことを,Xの形相的本性essentia formalisといっておきます。スピノザは『エチカ』ではあまりこの語を用いませんが,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』では使用されていて,それは概ねこれから示すような意味を有しています。
このXの形相的本性は観念の対象ideatumになります。このとき,Xの観念がXの形相的本性に一致すると,それはXの真の観念であることになります。第一部公理六はそのようないい方こそしていませんが,『エチカ』に『知性改善論』をミックスさせると,この公理Axiomaは実はこのような意味を有していると解するのが妥当だと僕は考えます。しかるに真理というのが真の観念の集積であって,Xの形相的本性と一致する観念がXの真の観念であるなら,この形相的本性をXの真理とみなしても構わないと僕は考えるのです。したがって,もし真理というのが知性を離れて形相的有として存在するということを肯定する場合には,各々の事物の形相的本性が,各々の事物の真理であるというのが妥当だと考えます。
ただし,形相的本性というのは形相的な事物だけが特有に有する本性ではありません。客観的有いい換えれば事物の観念にも,この意味での形相的本性はあるのです。