埴谷雄高の小説家としての代表作はいうまでもなく『死霊』です。ここから簡単に類推できるように,埴谷にとってドストエフスキーの作品の中で最も重要なのは『悪霊』です。『ドストエフスキイその生涯と作品』では第九章で『悪霊』が扱われています。
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その大部分は,『悪霊』を執筆する最大の契機であったネチャーエフ事件という実在の事件に充てられています。そして最後の方で主人公といっていいであろうスタヴローギンについて語られるのですが,そこにキリーロフという別の人物に対する評価が加わっていき,キリーロフ評でこの稿は終焉します。これでみれば分かるように,どうも埴谷はスタヴローギンと同程度に,あるいはそれ以上に,キリーロフというのが『悪霊』において重要な登場人物と解しているようなのです。僕はそのように考えたことはありませんでしたし,またこのような『悪霊』論に出会うのも初めてでした。
僕にとってキリーロフの印象のほとんどは,第二部の5章によって構成されます。ここではスタヴローギンがキリーロフを訪ねます。スタヴローギンがかつて恥をかかせた男の息子であるガガーノフと決闘をするにあたって,その取次と介添えをキリーロフに依頼するのです。これはスタヴローギンにとって,キリーロフはそれを依頼する価値がある人間だったということを意味するでしょう。
スタヴローギンがキリーロフを訪問した主目的は,その依頼だったのですが,この場ではスタヴローギンとキリーロフが多くの会話を交わします。第二部第一章5節はスタヴローギンとキリーロフの会話がすべてなのです。だから僕にはこの部分でキリーロフの印象のすべてが決定されてしまい,しかもキリーロフはここでの会話の内容に忠実な人間であるように他の箇所でも書かれているように思えたのです。なので埴谷がキリーロフに焦点を当てているのは,僕には新鮮な読解でした。
僕には『エチカ』には二種類の公理系の外部の認識cognitioというのが含まれているように思えます。まずひとつが,観念の観念idea ideaeについての言及です。
スピノザは観念ideaが観念対象ideatumにもなることを主張し,その観念,つまり観念の観念もまた観念対象になるというように,こうした関係が無限に連鎖していくといっています。いい換えれば,第二部公理三によれば思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念なのですから,観念の対象とならないような思惟の様態は何もないといっていることになります。
これがなぜ公理系の外部の認識となり得るのかといえば,たとえばある公理系の全体を第二種の認識cognitio secundi generisによって認識したとき,認識された公理系の全体もまた観念の対象,すなわち認識の対象となり得るわけですから,それは公理系の全体を,いってみればメタとでもいうべき地点から認識している認識ということになるであろうからです。さらにこのメタの地点からの認識をさらにメタの地点から認識することが可能で,メタ,メタのメタ,さらにそのメタという具合に,メタは無限に連鎖していくことになるのです。つまりどのレベルのメタの認識にもさらにメタの認識が存在するのですから,これは結局のところ,公理系をどのような地点から全体的に認識したとしても,その公理系には外部の認識が存在するといっているのと同じことになると僕は思うのです。
とくにこのことは,スピノザが同一個体というのをどのように説明しているのかという観点から明らかです。観念と観念の観念は同一個体です。また,観念の観念と観念の観念の観念も同一個体です。しかし観念と観念の観念の観念は同一個体ではありません。ですから,ある公理系全体の認識と,その全体の認識の認識に関しては,もしかしたら同じ公理系の内部にある認識であるといえるかもしれません。しかし公理系全体の認識と,その認識の認識の認識を,同じ公理系の内部での認識というのには無理があるだろうと僕は考えるのです。
さらに重要なのは,第二部定理四三が,この関係から証明されていることです。この定理Propositioは真の観念idea veraについての言及であり,第二種の認識についての言及であるとは限らないのです。
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その大部分は,『悪霊』を執筆する最大の契機であったネチャーエフ事件という実在の事件に充てられています。そして最後の方で主人公といっていいであろうスタヴローギンについて語られるのですが,そこにキリーロフという別の人物に対する評価が加わっていき,キリーロフ評でこの稿は終焉します。これでみれば分かるように,どうも埴谷はスタヴローギンと同程度に,あるいはそれ以上に,キリーロフというのが『悪霊』において重要な登場人物と解しているようなのです。僕はそのように考えたことはありませんでしたし,またこのような『悪霊』論に出会うのも初めてでした。
僕にとってキリーロフの印象のほとんどは,第二部の5章によって構成されます。ここではスタヴローギンがキリーロフを訪ねます。スタヴローギンがかつて恥をかかせた男の息子であるガガーノフと決闘をするにあたって,その取次と介添えをキリーロフに依頼するのです。これはスタヴローギンにとって,キリーロフはそれを依頼する価値がある人間だったということを意味するでしょう。
スタヴローギンがキリーロフを訪問した主目的は,その依頼だったのですが,この場ではスタヴローギンとキリーロフが多くの会話を交わします。第二部第一章5節はスタヴローギンとキリーロフの会話がすべてなのです。だから僕にはこの部分でキリーロフの印象のすべてが決定されてしまい,しかもキリーロフはここでの会話の内容に忠実な人間であるように他の箇所でも書かれているように思えたのです。なので埴谷がキリーロフに焦点を当てているのは,僕には新鮮な読解でした。
僕には『エチカ』には二種類の公理系の外部の認識cognitioというのが含まれているように思えます。まずひとつが,観念の観念idea ideaeについての言及です。
スピノザは観念ideaが観念対象ideatumにもなることを主張し,その観念,つまり観念の観念もまた観念対象になるというように,こうした関係が無限に連鎖していくといっています。いい換えれば,第二部公理三によれば思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念なのですから,観念の対象とならないような思惟の様態は何もないといっていることになります。
これがなぜ公理系の外部の認識となり得るのかといえば,たとえばある公理系の全体を第二種の認識cognitio secundi generisによって認識したとき,認識された公理系の全体もまた観念の対象,すなわち認識の対象となり得るわけですから,それは公理系の全体を,いってみればメタとでもいうべき地点から認識している認識ということになるであろうからです。さらにこのメタの地点からの認識をさらにメタの地点から認識することが可能で,メタ,メタのメタ,さらにそのメタという具合に,メタは無限に連鎖していくことになるのです。つまりどのレベルのメタの認識にもさらにメタの認識が存在するのですから,これは結局のところ,公理系をどのような地点から全体的に認識したとしても,その公理系には外部の認識が存在するといっているのと同じことになると僕は思うのです。
とくにこのことは,スピノザが同一個体というのをどのように説明しているのかという観点から明らかです。観念と観念の観念は同一個体です。また,観念の観念と観念の観念の観念も同一個体です。しかし観念と観念の観念の観念は同一個体ではありません。ですから,ある公理系全体の認識と,その全体の認識の認識に関しては,もしかしたら同じ公理系の内部にある認識であるといえるかもしれません。しかし公理系全体の認識と,その認識の認識の認識を,同じ公理系の内部での認識というのには無理があるだろうと僕は考えるのです。
さらに重要なのは,第二部定理四三が,この関係から証明されていることです。この定理Propositioは真の観念idea veraについての言及であり,第二種の認識についての言及であるとは限らないのです。