名古屋競輪場で争われた第62回オールスター競輪の決勝。並びは菅田-新田‐渡辺-佐藤の北日本,平原-諸橋の関東,郡司-中村の南関東で中川は単騎。
新田がスタートを取って菅田の前受け。5番手に平原,7番手に中川,8番手に郡司で周回。残り3周のバックから郡司が上昇。最終コーナーからホームにかけて菅田と併走。残り2周のホームで誘導が退避すると菅田が郡司を出させずに突っ張り先行。郡司は引いて,周回中と同じ一列棒状となって打鐘。バックから平原が発進。番手から出た新田の前に一旦は出たのですが,コーナーで内から新田が抵抗。平原が力尽き,先頭で直線に入った新田の優勝。新田がインから抵抗したため渡辺はマークしきれませんでしたが,その後ろの佐藤はインを回り,直線で新田と平原の間に進路を取って4分の3車身差で2着。平原マークから外を踏んだ諸橋が半車輪差の3着。
優勝した福島の新田祐大選手は昨年2月の全日本選抜競輪以来の優勝。ビッグは10勝目でGⅠは8勝目。オールスター競輪は2015年以来4年ぶりの2勝目。名古屋では2016年に高松宮記念杯を優勝しています。優勝から遠ざかっていたのは競技が主体なので,昨年は出走数が6回で今年もこれが3回目の出走となるため。ここは純粋な脚力で最上位の上に,菅田の先行が有力でしたから展開的にも有利そうで,よほどのことがなければ負けないだろうと思っていました。一旦は平原に前に出られたのですが,インから差し返したのは底力でしょう。ただラインの競走という観点だけでいえば,もう少し早めに番手から発進してもよかったような気はします。
もう一度,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で展開されている,創造されない事物の定義Definitioの要件を確認しておきましょう。
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まず最初にいわれているのが,この定義は一切の原因causaを排除しなければならないということです。この原因というのが起成原因causa efficiensを意味しなければならないことはすでに示しました。ただしここでは,起成原因とはいわずに,事物が発生する原因といういい方をしておきます。
この要件と等置されているのが,自己自身の説明のために自己の本性essentia以外には何も要してはならないということでした。このふたつの条件が等置できるということは,このときのスピノザは,事物の本性はその事物が発生する原因を示すことはないと考えていた可能性が高くなります。
次にあげられている要件が,その定義が与えられれば,それが存在するか否かという問題が発生してはならないということです。ということはスピノザは,事物の本性はその事物の発生する原因を示すことはないのだけれど,その本性が与えられれば,それが存在するか否かという問題が生じないということはあり得ると考えていたと解する必要があるでしょう。
第一部定義一によって,本性が存在を含むessentia involvit existentiamもののことを自己原因causam suiといいます。自己原因が上述の要件を満たすように組み入れられるためには,自己原因はその事物が発生する原因ではないという解釈をするほかありません。しかしもしそうでなければ自己原因なしに,その本性が与えられればその存在が必然的にnecessario鼎立するような定義が存在するという解釈が必要になります。実はデカルトRené Descartesは,ある事柄が事物の本性に含まれるということを,その事柄がその事物について真verumであるという主旨の定義を立てることによって,後者の解釈が可能であるという議論を組み立てています。これは説明すると煩雑になりますのでここでは省略しますが,詳しいことは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理五を参照してください。
僕はここでのスピノザは,この議論に該当するような形で,創造されない事物の定義の要件を想定しているのではないかと思うのです。つまり,自己原因という概念notioを必要としないような仕方で定義論を展開していると考えるのです。
新田がスタートを取って菅田の前受け。5番手に平原,7番手に中川,8番手に郡司で周回。残り3周のバックから郡司が上昇。最終コーナーからホームにかけて菅田と併走。残り2周のホームで誘導が退避すると菅田が郡司を出させずに突っ張り先行。郡司は引いて,周回中と同じ一列棒状となって打鐘。バックから平原が発進。番手から出た新田の前に一旦は出たのですが,コーナーで内から新田が抵抗。平原が力尽き,先頭で直線に入った新田の優勝。新田がインから抵抗したため渡辺はマークしきれませんでしたが,その後ろの佐藤はインを回り,直線で新田と平原の間に進路を取って4分の3車身差で2着。平原マークから外を踏んだ諸橋が半車輪差の3着。
優勝した福島の新田祐大選手は昨年2月の全日本選抜競輪以来の優勝。ビッグは10勝目でGⅠは8勝目。オールスター競輪は2015年以来4年ぶりの2勝目。名古屋では2016年に高松宮記念杯を優勝しています。優勝から遠ざかっていたのは競技が主体なので,昨年は出走数が6回で今年もこれが3回目の出走となるため。ここは純粋な脚力で最上位の上に,菅田の先行が有力でしたから展開的にも有利そうで,よほどのことがなければ負けないだろうと思っていました。一旦は平原に前に出られたのですが,インから差し返したのは底力でしょう。ただラインの競走という観点だけでいえば,もう少し早めに番手から発進してもよかったような気はします。
もう一度,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で展開されている,創造されない事物の定義Definitioの要件を確認しておきましょう。
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まず最初にいわれているのが,この定義は一切の原因causaを排除しなければならないということです。この原因というのが起成原因causa efficiensを意味しなければならないことはすでに示しました。ただしここでは,起成原因とはいわずに,事物が発生する原因といういい方をしておきます。
この要件と等置されているのが,自己自身の説明のために自己の本性essentia以外には何も要してはならないということでした。このふたつの条件が等置できるということは,このときのスピノザは,事物の本性はその事物が発生する原因を示すことはないと考えていた可能性が高くなります。
次にあげられている要件が,その定義が与えられれば,それが存在するか否かという問題が発生してはならないということです。ということはスピノザは,事物の本性はその事物の発生する原因を示すことはないのだけれど,その本性が与えられれば,それが存在するか否かという問題が生じないということはあり得ると考えていたと解する必要があるでしょう。
第一部定義一によって,本性が存在を含むessentia involvit existentiamもののことを自己原因causam suiといいます。自己原因が上述の要件を満たすように組み入れられるためには,自己原因はその事物が発生する原因ではないという解釈をするほかありません。しかしもしそうでなければ自己原因なしに,その本性が与えられればその存在が必然的にnecessario鼎立するような定義が存在するという解釈が必要になります。実はデカルトRené Descartesは,ある事柄が事物の本性に含まれるということを,その事柄がその事物について真verumであるという主旨の定義を立てることによって,後者の解釈が可能であるという議論を組み立てています。これは説明すると煩雑になりますのでここでは省略しますが,詳しいことは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理五を参照してください。
僕はここでのスピノザは,この議論に該当するような形で,創造されない事物の定義の要件を想定しているのではないかと思うのです。つまり,自己原因という概念notioを必要としないような仕方で定義論を展開していると考えるのです。