②では怜子のことが,③ではあいつのことがそれぞれ歌われています。これが1番と2番のそれぞれの冒頭の部分です。「怜子」はこの部分と,1番と2番を通してリフレインされる,楽曲の中心部分とだけで構成されています。
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ひとの不幸を祈るようにだけは
なりたくないと願ってきたが
今夜 おまえの幸せぶりが
風に追われる 私の胸に痛すぎる
一読して分かるように,この部分は怜子やあいつのことが歌われているというよりは,歌い手自身のことが歌われているといえます。歌い手は怜子のこともあいつのことも昔から知っているわけで,その意味でいえばふたりの幸せを願ってもいいところでしょうし,実際に幸せそうなふたりのことを喜んでもいいでしょう。ですが現実はそうではなく,歌い手はふたりの,とくにここで「おまえ」といっている怜子の不幸を祈ってしまっているのです。これは嫉妬とか羨望とかやきもちといった感情が入り混じっているがゆえのことであり,歌い手がこのような感情になることを,少なくとも僕はリアルなものとして理解することができます。
僕はこのリフレインの部分が歌われているがために,この「怜子」という楽曲が好きなのです。他人の幸福を胸の痛みとして感じてしまうということが,こうした場合だけでなくあり得るということを,僕は論理的にも感覚的にもよく理解することができるからです。
書簡九は上野がいうスピノザが定義Definitioの理念を変更した後の定義論ですから,『エチカ』による補完の必要性は,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の場合に比べれば著しく減少します。なので仮に僕がここでのスピノザの主張をそのまま用いてスピノザの哲学における定義の要件を一般的に結論づけたとしても,さほど問題とはならないでしょう。
書簡九でも,スピノザは定義をふたつの場合に分けて個別に説明しています。ですがその分類のあり方が,『知性改善論』とはだいぶ違っています。スピノザは『知性改善論』では創造される事物と創造されない事物のふたつに分けて定義論を展開していました。これはいわば,何が定義されるのかということに重点を置いた分類といえます。いい換えればそこでのスピノザは,何が定義されるのかということが定義にとって最も重要なことであると考えていた可能性がとても高いということになります。ところが書簡九の分類は,その本性essentiaが不確かであるがゆえにそれを説明するのに役立つ定義と,それ自身が吟味されるために立てられる定義という区分になっています。したがってここでは,何が定義されるのかということによって分類しているのではなく,何のためにあるいはどのような目的で定義を立てるのかという観点から分類されていることになります。ということは,この時点でのスピノザは,何が定義されるのかということよりも,どのような目的で定義が立てられるのかということが,定義論においてより重要であると考えていた可能性が高くなるでしょう。上野が定義の理念をスピノザは変更したといっているのは,このことを意味しているのではないかと僕は思っています。これは定義とは何であるのかということが変更されたというよりは,定義は何のためにあるのかということが変更されたというべきで,それは定義の理念の変更といういい方で説明するのが最も適切であると僕には思えるからなのです。
ただし,書簡九の場合にはひとつだけ注意しておかなければならない点があると僕には思えます。それは,この書簡は講読会の参加者を代表してシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがスピノザに送った書簡八への返信であるということです。
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ひとの不幸を祈るようにだけは
なりたくないと願ってきたが
今夜 おまえの幸せぶりが
風に追われる 私の胸に痛すぎる
一読して分かるように,この部分は怜子やあいつのことが歌われているというよりは,歌い手自身のことが歌われているといえます。歌い手は怜子のこともあいつのことも昔から知っているわけで,その意味でいえばふたりの幸せを願ってもいいところでしょうし,実際に幸せそうなふたりのことを喜んでもいいでしょう。ですが現実はそうではなく,歌い手はふたりの,とくにここで「おまえ」といっている怜子の不幸を祈ってしまっているのです。これは嫉妬とか羨望とかやきもちといった感情が入り混じっているがゆえのことであり,歌い手がこのような感情になることを,少なくとも僕はリアルなものとして理解することができます。
僕はこのリフレインの部分が歌われているがために,この「怜子」という楽曲が好きなのです。他人の幸福を胸の痛みとして感じてしまうということが,こうした場合だけでなくあり得るということを,僕は論理的にも感覚的にもよく理解することができるからです。
書簡九は上野がいうスピノザが定義Definitioの理念を変更した後の定義論ですから,『エチカ』による補完の必要性は,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の場合に比べれば著しく減少します。なので仮に僕がここでのスピノザの主張をそのまま用いてスピノザの哲学における定義の要件を一般的に結論づけたとしても,さほど問題とはならないでしょう。
書簡九でも,スピノザは定義をふたつの場合に分けて個別に説明しています。ですがその分類のあり方が,『知性改善論』とはだいぶ違っています。スピノザは『知性改善論』では創造される事物と創造されない事物のふたつに分けて定義論を展開していました。これはいわば,何が定義されるのかということに重点を置いた分類といえます。いい換えればそこでのスピノザは,何が定義されるのかということが定義にとって最も重要なことであると考えていた可能性がとても高いということになります。ところが書簡九の分類は,その本性essentiaが不確かであるがゆえにそれを説明するのに役立つ定義と,それ自身が吟味されるために立てられる定義という区分になっています。したがってここでは,何が定義されるのかということによって分類しているのではなく,何のためにあるいはどのような目的で定義を立てるのかという観点から分類されていることになります。ということは,この時点でのスピノザは,何が定義されるのかということよりも,どのような目的で定義が立てられるのかということが,定義論においてより重要であると考えていた可能性が高くなるでしょう。上野が定義の理念をスピノザは変更したといっているのは,このことを意味しているのではないかと僕は思っています。これは定義とは何であるのかということが変更されたというよりは,定義は何のためにあるのかということが変更されたというべきで,それは定義の理念の変更といういい方で説明するのが最も適切であると僕には思えるからなのです。
ただし,書簡九の場合にはひとつだけ注意しておかなければならない点があると僕には思えます。それは,この書簡は講読会の参加者を代表してシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがスピノザに送った書簡八への返信であるということです。