日本時間で昨日の深夜にイギリスのヨーク競馬場で行われたインターナショナルステークスGⅠ芝1マイル2ハロン56ヤード。
シュヴァルグランは5番手の外という位置。前から2頭ずつが併走するという形でしたので,3列目の外でした。隊列はほとんど変わることがないまま直線に。前をいく馬たちの外に出されましたが,伸びを欠き,前とは差を広げられ,後ろからも差される形になり,勝ち馬から6馬身弱の差で8着でした。
アスコット競馬場よりはヨーク競馬場の方が日本の馬には走りやすかったと思いますが,この馬の場合は長距離の方が得意な馬で,ここは距離が短かったようです。スタミナよりも瞬発力が問われるようなレースになってしまったこともあり,この結果も致し方ないのではないでしょうか。
書簡九を書いている時点のスピノザがどういう意図を有していたかを確定することは困難です。しかしその意図がどうであったとしても,これはあくまでも書簡八への解答としてスピノザは記述しているのですし,僕たちもそのことを踏まえた上で書簡九を読解していかなければなりません。すなわちこの書簡で展開されているスピノザの定義論は,書簡八で定義Definitioについて質問を受けたことを踏まえての定義論なのです。よってスピノザは,後にそれを公開するという意図を有していたとしても,それは不特定多数の読者を想定して記述しているわけではなく,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesを代表とする講読会のメンバーに向けて書いていると解さなければなりません。

なのでここで展開されているスピノザの定義論は,書簡八の中の定義に対する解釈に不備があったため,それを分かりやすく説明しているだけであるという可能性が残ります。要するに,ここで主張されている定義論は,必ずしもスピノザの哲学における定義論の核心をなすものではないのという可能性はあるのです。なぜなら書簡八における定義に関連した解釈上の不備というのは,スピノザの哲学の定義論の全体においては枝葉末節に属するものであったという可能性は否定できないからです。それでも解釈の上での不備があれば当然ながらスピノザはそれを無視したりはせず,定義を正しく解釈するための方法を示すことになるでしょう。書簡八と九の内容が実際にはそうであった可能性があるということは認めなければならないと僕は考えます。いい換えれば,上野はスピノザは定義の理念を変更したといっているのですが,実際には『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と書簡九をそのまま比較するとそのようにみえているだけで,『知性改善論』における定義の基本的な理念は,何ら変更されてはいないという可能性があると僕は考えます。ただしこの解釈には注意が必要です。というのはすでに僕が説明したように,『知性改善論』における定義論をそのままの形で解釈すれば,それはスピノザの哲学の全体の定義論としては妥当しません。僕がいうのは,『知性改善論』の定義論を『エチカ』で補完した上での定義の理念のことです。
シュヴァルグランは5番手の外という位置。前から2頭ずつが併走するという形でしたので,3列目の外でした。隊列はほとんど変わることがないまま直線に。前をいく馬たちの外に出されましたが,伸びを欠き,前とは差を広げられ,後ろからも差される形になり,勝ち馬から6馬身弱の差で8着でした。
アスコット競馬場よりはヨーク競馬場の方が日本の馬には走りやすかったと思いますが,この馬の場合は長距離の方が得意な馬で,ここは距離が短かったようです。スタミナよりも瞬発力が問われるようなレースになってしまったこともあり,この結果も致し方ないのではないでしょうか。
書簡九を書いている時点のスピノザがどういう意図を有していたかを確定することは困難です。しかしその意図がどうであったとしても,これはあくまでも書簡八への解答としてスピノザは記述しているのですし,僕たちもそのことを踏まえた上で書簡九を読解していかなければなりません。すなわちこの書簡で展開されているスピノザの定義論は,書簡八で定義Definitioについて質問を受けたことを踏まえての定義論なのです。よってスピノザは,後にそれを公開するという意図を有していたとしても,それは不特定多数の読者を想定して記述しているわけではなく,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesを代表とする講読会のメンバーに向けて書いていると解さなければなりません。

なのでここで展開されているスピノザの定義論は,書簡八の中の定義に対する解釈に不備があったため,それを分かりやすく説明しているだけであるという可能性が残ります。要するに,ここで主張されている定義論は,必ずしもスピノザの哲学における定義論の核心をなすものではないのという可能性はあるのです。なぜなら書簡八における定義に関連した解釈上の不備というのは,スピノザの哲学の定義論の全体においては枝葉末節に属するものであったという可能性は否定できないからです。それでも解釈の上での不備があれば当然ながらスピノザはそれを無視したりはせず,定義を正しく解釈するための方法を示すことになるでしょう。書簡八と九の内容が実際にはそうであった可能性があるということは認めなければならないと僕は考えます。いい換えれば,上野はスピノザは定義の理念を変更したといっているのですが,実際には『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と書簡九をそのまま比較するとそのようにみえているだけで,『知性改善論』における定義の基本的な理念は,何ら変更されてはいないという可能性があると僕は考えます。ただしこの解釈には注意が必要です。というのはすでに僕が説明したように,『知性改善論』における定義論をそのままの形で解釈すれば,それはスピノザの哲学の全体の定義論としては妥当しません。僕がいうのは,『知性改善論』の定義論を『エチカ』で補完した上での定義の理念のことです。