昨日から徳島市で指された第60期王位戦七番勝負第五局。
豊島将之王位の先手で角換り相腰掛銀。互いに馬を作り合った後,後手の木村一基九段が先手の馬を捕獲する手順を目指しました。先手を急かせる意図だったと思いますが,結果的に先手の攻めがそこから最後まで繋がる形になりましたので,もうそのあたりで先手が有利になっていたのではないかと思います。
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後手の玉が3一から上がった局面。指す手が難しかったのでしょうが,この手はあまりよくなかったように思われます。
先手は☗1五歩☖同歩☗同香☖同香と捨てて☗1四金と打ちました。後手は☖1一香と受けましたが☗2三歩☖同金と吊り上げておいて☗2四金。☖同金☗同飛となって☖2三歩と受けましたがそこで☗5五銀が強烈な一手。
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飛車を取ると☗3三歩成が生じてしまうので☖4五歩と受けましたが☗4四銀と出られ,後手陣は収拾がつかなくなっています。
豊島王位が勝って3勝2敗。第六局は来月9日と10日です。
ファン・ローンJoanis van Loonによれば,1660年にローンがライデンLeidenに滞在したとき,スピノザの訪問を受けました。レインスブルフRijnsburgはアウデルケルクAwerkerkと違い,アムステルダムAmsterdamから遠かったので,レインスブルフに移住した後のスピノザは,それまでのようにアムステルダムを頻繁に訪れることは不可能だった筈です。このことは講読会が開催されるようになったことと関係があると思えます。というのは,もしスピノザと講読会のメンバーが頻繁に会えるならこういう会は必要なく,スピノザ自身に参加してもらえばよいからです。これは講読会のひとつの条件です。もうひとつは,この講読会は『エチカ』の草稿の講読会だったわけですから,講読会が始まった時点ですでに『エチカ』が書き始められていたのでなければなりません。
ローンはこのとき,ローンがライデンを訪れることをヘルマン・ホーマンHermann Homanから聞いたとスピノザが言ったと書いています。ホーマンはスピノザのレインスブルフでの滞在先の家主です。なのでこの部分のローンの記述は信頼性が高いといえます。そしてレインスブルフはアムステルダムからは遠いですが,ライデンには近いので,スピノザも気軽に訪ねることができたのです。よって1660年にはスピノザはレインスブルフに移住していたのであり,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがコレギアント派collegiantenだったがゆえにスピノザと出会ったとすれば,それ以前に出会っていたと考えなければなりません。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには,スピノザが1677年に死んだとき,スピノザの葬儀のための費用を,シモン・ド・フリースのきょうだいが負担したと解せる記述があります。また1665年の一時期,スピノザはそのきょうだいの家に滞在しています。したがってスピノザはシモン・ド・フリースとだけ親しかったわけではなく,きょうだいたちとも親しかったのです。もしかしたらスピノザはアウデルケルクでスピノザに会った頃から,きょうだいとも会っていたかもしれません。スピノザをアムステルダムで世話したのはたぶんファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenですが,フリースは裕福でしたから,アムステルダムのフリースの家にスピノザが滞在することもあったかもしれません。
豊島将之王位の先手で角換り相腰掛銀。互いに馬を作り合った後,後手の木村一基九段が先手の馬を捕獲する手順を目指しました。先手を急かせる意図だったと思いますが,結果的に先手の攻めがそこから最後まで繋がる形になりましたので,もうそのあたりで先手が有利になっていたのではないかと思います。
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後手の玉が3一から上がった局面。指す手が難しかったのでしょうが,この手はあまりよくなかったように思われます。
先手は☗1五歩☖同歩☗同香☖同香と捨てて☗1四金と打ちました。後手は☖1一香と受けましたが☗2三歩☖同金と吊り上げておいて☗2四金。☖同金☗同飛となって☖2三歩と受けましたがそこで☗5五銀が強烈な一手。
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飛車を取ると☗3三歩成が生じてしまうので☖4五歩と受けましたが☗4四銀と出られ,後手陣は収拾がつかなくなっています。
豊島王位が勝って3勝2敗。第六局は来月9日と10日です。
ファン・ローンJoanis van Loonによれば,1660年にローンがライデンLeidenに滞在したとき,スピノザの訪問を受けました。レインスブルフRijnsburgはアウデルケルクAwerkerkと違い,アムステルダムAmsterdamから遠かったので,レインスブルフに移住した後のスピノザは,それまでのようにアムステルダムを頻繁に訪れることは不可能だった筈です。このことは講読会が開催されるようになったことと関係があると思えます。というのは,もしスピノザと講読会のメンバーが頻繁に会えるならこういう会は必要なく,スピノザ自身に参加してもらえばよいからです。これは講読会のひとつの条件です。もうひとつは,この講読会は『エチカ』の草稿の講読会だったわけですから,講読会が始まった時点ですでに『エチカ』が書き始められていたのでなければなりません。
ローンはこのとき,ローンがライデンを訪れることをヘルマン・ホーマンHermann Homanから聞いたとスピノザが言ったと書いています。ホーマンはスピノザのレインスブルフでの滞在先の家主です。なのでこの部分のローンの記述は信頼性が高いといえます。そしてレインスブルフはアムステルダムからは遠いですが,ライデンには近いので,スピノザも気軽に訪ねることができたのです。よって1660年にはスピノザはレインスブルフに移住していたのであり,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesがコレギアント派collegiantenだったがゆえにスピノザと出会ったとすれば,それ以前に出会っていたと考えなければなりません。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには,スピノザが1677年に死んだとき,スピノザの葬儀のための費用を,シモン・ド・フリースのきょうだいが負担したと解せる記述があります。また1665年の一時期,スピノザはそのきょうだいの家に滞在しています。したがってスピノザはシモン・ド・フリースとだけ親しかったわけではなく,きょうだいたちとも親しかったのです。もしかしたらスピノザはアウデルケルクでスピノザに会った頃から,きょうだいとも会っていたかもしれません。スピノザをアムステルダムで世話したのはたぶんファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenですが,フリースは裕福でしたから,アムステルダムのフリースの家にスピノザが滞在することもあったかもしれません。