①の最後で,ナイフに力を入れてステーキの肉を切りながら,彼女の質問をも切ってしまった彼は,そのときの想いを吐露します。
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ここは24時間レストラン
危ないことばをビールで飲み込んだら
さっき抱き合った宿の名前でも もう一度むし返そうか
彼女がスパゲティを食べ,彼がステーキを食べているのは終日営業のレストランです。このレストランに来る前に,ふたりはどこかの宿で抱き合ったのですから,時間帯は深夜あるいは未明だと思われます。ふたりは食事のほかにビールも注文していて,彼のぶっきらぼうな答えの後にふたりでそれを飲みます。改めて乾杯したかもしれません。ですがそれは希望に満ち溢れた将来のための乾杯というよりは,将来への不安を飲み込んでしまう,忘れてしまうための乾杯です。
このことは,その後の部分からより明瞭に理解できます。この部分は彼の想いだけであったかもしれませんし,あるいは実際にことばとして発せられたかもしれません。そしてこのことばが意味するところは,将来に対する漠然とした不安を飲み込んでしまうかわりに,楽しかった過去のことを話そうということです。つまり少なくとも彼が目を向けているのは,どうなってしまうのか分からない未来の方向ではなく,楽しかった過去の方向なのです。
緒論でいわれている人間の本性natura humanaの創造者が,人間の精神mens humanaの創造者であるとして,それは神Deusであるか否かということは別の問題として考えなければなりません。スピノザの哲学でなら第一部定理二五によってそれは神である,とくに第二部定理六によって,思惟する限りでの神であるということになりますが,このことがデカルトRené Descartesの哲学においても成立するのかどうかは分かりませんし,とりわけデカルトの見解に対する反駁者がそのように想定しているかどうかも分からないからです。この部分は反駁に対する解答になっているのですから,とくに後者の部分はより大きな問題となるでしょう。そこで今度はこれをここまでとは異なった観点から考察していきます。
スピノザは緒論の中で,人間が神を真に認識したなら,神が最も誠実であるということについては疑い得ないといっていました。スピノザがそのようにいう根拠は明らかにされていませんから,それは分からないのだとしても,反駁に対する解答という観点からいえば,このことは前提とすることができます。いい換えれば,神を真に認識したとしても,神が最も誠実であるということを認識することはできないという主旨の反論は成立しません。他面からいえば,あるものが認識されたときに,それが最も誠実なものであると認識し得るなら,それは神を認識しているということであると解することになります。もちろんこれに対しても,そもそもそのようなものを認識するcognoscereことはできないのではないかという疑問を提示することが可能であるということは僕は認めますが,実際のところは人間がそれを現実的に認識することができるかどうかということが問題ではないのであって,もしそのように認識することができたならそれは神の認識cognitioであるということが重要なので,このような反駁も成立しないとします。これはいい換えれば,人間によって認識されるものとしての神を,ここではそのように定義しておくという意味なのであって,そういうものが実在するかどうかは考慮の外に置き,神をこのように唯名論的に定義するということです。このことについてはスピノザの哲学における定義Definitioの要件を参考にしてください。
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ここは24時間レストラン
危ないことばをビールで飲み込んだら
さっき抱き合った宿の名前でも もう一度むし返そうか
彼女がスパゲティを食べ,彼がステーキを食べているのは終日営業のレストランです。このレストランに来る前に,ふたりはどこかの宿で抱き合ったのですから,時間帯は深夜あるいは未明だと思われます。ふたりは食事のほかにビールも注文していて,彼のぶっきらぼうな答えの後にふたりでそれを飲みます。改めて乾杯したかもしれません。ですがそれは希望に満ち溢れた将来のための乾杯というよりは,将来への不安を飲み込んでしまう,忘れてしまうための乾杯です。
このことは,その後の部分からより明瞭に理解できます。この部分は彼の想いだけであったかもしれませんし,あるいは実際にことばとして発せられたかもしれません。そしてこのことばが意味するところは,将来に対する漠然とした不安を飲み込んでしまうかわりに,楽しかった過去のことを話そうということです。つまり少なくとも彼が目を向けているのは,どうなってしまうのか分からない未来の方向ではなく,楽しかった過去の方向なのです。
緒論でいわれている人間の本性natura humanaの創造者が,人間の精神mens humanaの創造者であるとして,それは神Deusであるか否かということは別の問題として考えなければなりません。スピノザの哲学でなら第一部定理二五によってそれは神である,とくに第二部定理六によって,思惟する限りでの神であるということになりますが,このことがデカルトRené Descartesの哲学においても成立するのかどうかは分かりませんし,とりわけデカルトの見解に対する反駁者がそのように想定しているかどうかも分からないからです。この部分は反駁に対する解答になっているのですから,とくに後者の部分はより大きな問題となるでしょう。そこで今度はこれをここまでとは異なった観点から考察していきます。
スピノザは緒論の中で,人間が神を真に認識したなら,神が最も誠実であるということについては疑い得ないといっていました。スピノザがそのようにいう根拠は明らかにされていませんから,それは分からないのだとしても,反駁に対する解答という観点からいえば,このことは前提とすることができます。いい換えれば,神を真に認識したとしても,神が最も誠実であるということを認識することはできないという主旨の反論は成立しません。他面からいえば,あるものが認識されたときに,それが最も誠実なものであると認識し得るなら,それは神を認識しているということであると解することになります。もちろんこれに対しても,そもそもそのようなものを認識するcognoscereことはできないのではないかという疑問を提示することが可能であるということは僕は認めますが,実際のところは人間がそれを現実的に認識することができるかどうかということが問題ではないのであって,もしそのように認識することができたならそれは神の認識cognitioであるということが重要なので,このような反駁も成立しないとします。これはいい換えれば,人間によって認識されるものとしての神を,ここではそのように定義しておくという意味なのであって,そういうものが実在するかどうかは考慮の外に置き,神をこのように唯名論的に定義するということです。このことについてはスピノザの哲学における定義Definitioの要件を参考にしてください。