④で磨かれていたギターを発見した歌い手は,何だかいたたまれない気持ちになります。もっともその気持ちは,歌い手が訪ねてきたときからおまえが感じていた気持ちと同じだったのかもしれません。
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あんまり ゆっくりも してはいられないんだ
今度 また来るからと おまえの目を見ずに言うと
そうか いつでも 来てくれよと
そのとき おまえは 昔の顔だった
歌い手はおそらく仕事の外回りの最中におまえの家を訪ねたのであり,だからゆっくりしてはいられない事情があるということは,嘘ではなかったかもしれません。ですが本心をいえば,もうここをすぐにでも立ち去りたくなっていたのでしょう。だから,また来るというのは明らかな社交辞令なのであって,歌い手はそれをおまえの顔を見て言うことはできなかったのです。
おまえが昔の顔に戻ったのは,歌い手が去ることで,辛い気持ちから去ることができると思ったからでしょう。もしそうであるのなら,歌い手のことばが社交辞令であるということにも,気付いていた筈です。
コートの襟を立てて あたしは仕事場へ向かう
指先も 襟もとも 冷たい
今夜は どんなに メイジャーの歌を弾いても
しめっぽい音を ギターは出すだろう
この部分で多くのことが分かります。
まず歌い手が女であること。そして歌い手は仕事場へ戻る必要があったこと。コートを着ている,つまり冬の日であったことなどです。そして最後に,歌い手もギターを弾いていたことが分かります。③でおまえはギターをやめたといっていましたが,歌い手はそれより早い段階で,ギターをやめていたのでしょう。この晩,歌い手が弾くギターも,おまえのギターのように,ピカピカに磨かれているのかもしれません。
バディウAlain Badiouに関連する考察はここまでにして,次の探求に移ります。
『〈内在の哲学〉へ』の8章の七節で,スピノザの定義Definitioの要件の意義が,『エチカ』との関連で具体的に説明されています。これはスピノザの定義論を正しく理解する上できわめて有益なので,ここでも詳しい説明を与えておきます。
近藤がここで採り上げているのは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九の,それ自身が吟味されるために立てられる定義です。この要件そのものについては,何度か説明していますからここでは繰り返しません。ただし近藤は,この要件についてスピノザが説明している事柄をさらに深く追求していますので,それはここでも説明していきます。
スピノザがこの要件についていっていることは,もしこの要件に則って定義が立てられる場合には,十分に理解することができるのであればそれで十分であって,公理Axiomaや定理Propositioとは異なり,真理veritasとは関連しなくても構わないということです。つまり,公理とか定理というのは,その命題が真verumの命題でなければならないのですが,定義の命題に関しては,もしもそれを十分に理解することができるのであれば,真の命題でなくてもよいとスピノザはいっているのです。このことはバディウに関連した考察の中で,空を定義し得るのかということを考えたときのことと関連し得ますが,ここでは『エチカ』との関連で探求していきます。
スピノザはこの種の定義を,実体substantiaを用いて説明しています。もし,各々の実体は唯一の属性attributumを有するのみであるという命題があったとしたら,この命題は定理の命題でなければならず,それを真であることを示すための証明Demonstratioが必要になります。しかし,実体を唯一の属性からなるものであると解するintelligereという命題を立てるのであれば,この命題は実体のことを十分に理解することができるがゆえに,よい定義であることをスピノザは認めるのです。ただしこの場合は,この定義が立てられた後に,複数の属性からなる実有ensについて論述しようとするのであれば,それを実体ということはできません。つまりこの条件さえ守られるのであれば,前述の定義は実体の定義としてよい定義であることになります。
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あんまり ゆっくりも してはいられないんだ
今度 また来るからと おまえの目を見ずに言うと
そうか いつでも 来てくれよと
そのとき おまえは 昔の顔だった
歌い手はおそらく仕事の外回りの最中におまえの家を訪ねたのであり,だからゆっくりしてはいられない事情があるということは,嘘ではなかったかもしれません。ですが本心をいえば,もうここをすぐにでも立ち去りたくなっていたのでしょう。だから,また来るというのは明らかな社交辞令なのであって,歌い手はそれをおまえの顔を見て言うことはできなかったのです。
おまえが昔の顔に戻ったのは,歌い手が去ることで,辛い気持ちから去ることができると思ったからでしょう。もしそうであるのなら,歌い手のことばが社交辞令であるということにも,気付いていた筈です。
コートの襟を立てて あたしは仕事場へ向かう
指先も 襟もとも 冷たい
今夜は どんなに メイジャーの歌を弾いても
しめっぽい音を ギターは出すだろう
この部分で多くのことが分かります。
まず歌い手が女であること。そして歌い手は仕事場へ戻る必要があったこと。コートを着ている,つまり冬の日であったことなどです。そして最後に,歌い手もギターを弾いていたことが分かります。③でおまえはギターをやめたといっていましたが,歌い手はそれより早い段階で,ギターをやめていたのでしょう。この晩,歌い手が弾くギターも,おまえのギターのように,ピカピカに磨かれているのかもしれません。
バディウAlain Badiouに関連する考察はここまでにして,次の探求に移ります。
『〈内在の哲学〉へ』の8章の七節で,スピノザの定義Definitioの要件の意義が,『エチカ』との関連で具体的に説明されています。これはスピノザの定義論を正しく理解する上できわめて有益なので,ここでも詳しい説明を与えておきます。
近藤がここで採り上げているのは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九の,それ自身が吟味されるために立てられる定義です。この要件そのものについては,何度か説明していますからここでは繰り返しません。ただし近藤は,この要件についてスピノザが説明している事柄をさらに深く追求していますので,それはここでも説明していきます。
スピノザがこの要件についていっていることは,もしこの要件に則って定義が立てられる場合には,十分に理解することができるのであればそれで十分であって,公理Axiomaや定理Propositioとは異なり,真理veritasとは関連しなくても構わないということです。つまり,公理とか定理というのは,その命題が真verumの命題でなければならないのですが,定義の命題に関しては,もしもそれを十分に理解することができるのであれば,真の命題でなくてもよいとスピノザはいっているのです。このことはバディウに関連した考察の中で,空を定義し得るのかということを考えたときのことと関連し得ますが,ここでは『エチカ』との関連で探求していきます。
スピノザはこの種の定義を,実体substantiaを用いて説明しています。もし,各々の実体は唯一の属性attributumを有するのみであるという命題があったとしたら,この命題は定理の命題でなければならず,それを真であることを示すための証明Demonstratioが必要になります。しかし,実体を唯一の属性からなるものであると解するintelligereという命題を立てるのであれば,この命題は実体のことを十分に理解することができるがゆえに,よい定義であることをスピノザは認めるのです。ただしこの場合は,この定義が立てられた後に,複数の属性からなる実有ensについて論述しようとするのであれば,それを実体ということはできません。つまりこの条件さえ守られるのであれば,前述の定義は実体の定義としてよい定義であることになります。