第61回宝塚記念。
グローリーヴェイズは立ち上がるような発馬で1馬身の不利。逃げるとみられたキセキもあまり発馬がよくなかったため,トーセンスーリヤの逃げになりました。2番手にワグネリアン。3番手にペルシアンナイトとダンビュライト。5番手にラッキーライラック。6番手にアフリカンゴールドとブラストワンピース。8番手にスティッフェリオ。9番手にサートゥルナーリアとクロノジェネシス。11番手にレッドジェニアルとモズベッロ。13番手にキセキ。14番手にアドマイヤアルバとグローリーヴェイズでここまでは差がなく続きました。2馬身差でトーセンカンビーナとメイショウテンゲン。最後尾にカデナという隊列。最初の1000mは60秒0のハイペース。
3コーナーを回ってトーセンスーリヤとワグネリアンの外にダンビュライトが上がり,さらにその外からラッキーライラック,クロノジェネシス,キセキの3頭。この6頭はあまり差がなく直線の入口を迎え,ラッキーライラックが一旦は先頭に立ちましたが,これをマークするようなレースになったクロノジェネシスの手応えが絶好。あっさりとラッキーライラックを差すと,そのまま抜け出し,後ろとの差を広げていって楽勝。外から追い込む競馬になったキセキが6馬身差で2着。キセキの後ろから並んで追い込んできた2頭のうち,モズベッロが5馬身差で3着。サートゥルナーリアが1馬身4分の3差で4着。
優勝したクロノジェネシスは京都記念以来の勝利。大レースは秋華賞以来の2勝目。京都記念は強力な牡馬が不在でしたが,前走の大阪杯で2着になり,牡馬が相手でも十分に戦えるということを示していました。ですから優勝自体は不思議ではないのですが,1着と2着,そして2着と3着との間にこれほどまでの差が開いたというのは,各馬の能力からすると不自然な感じがします。気象の条件とか馬場の状態が,結果に対して大きく左右したと考えられそうです。ただ,昨年よりも強くなっているということは間違いないでしょう。母の父はクロフネ。3代母がラスティックベルで,ひとつ上の半姉に一昨年の紫苑ステークスと昨年のヴィクトリアマイルと富士ステークスを勝っている現役のノームコア。
騎乗した北村友一騎手は阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース5勝目。宝塚記念は初勝利。管理している斉藤崇史調教師はNHKマイルカップ以来の大レース4勝目。宝塚記念は初勝利。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが蜘蛛に喩えているのは,スピノザではなく神です。ここでニーチェがいっている神は,キリスト教の神のことです。そして,その神が喩えられているのは蜘蛛だけではありません。一八節の冒頭では,キリスト教の神は三種類のものに喩えられていて,蜘蛛はそのひとつです。ニーチェはそこでキリスト教の神のことを,病人としての神,蜘蛛としての神,精神としての神といっています。スピノザに対する言及は,蜘蛛としての神にだけ関連していますから,ここでは蜘蛛としての神のことだけを考えていますが,それは神に対する喩えのひとつであるということだけは,ニーチェの主旨を理解する上では踏まえておいてください。
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蜘蛛としての神というのは,自らが蜘蛛となって巣を張る蜘蛛のことの筈です。神がそういう蜘蛛になったのは,ニーチェのことばを借りればスピノザの相の下にです。つまりここで蜘蛛としての神といわれているのは,スピノザの哲学あるいはニーチェのいい方では形而上学の神であると解していいでしょう。ニーチェはその神を,キリスト教の神の喩えに用いています。つまりここから,ニーチェはスピノザの哲学における神と,キリスト教の神とを,同一視しているということになります。
それを同一視することができるのかということについては,疑問の余地があるでしょう。実際にはスピノザはプロテスタントの牧師たちから非難されていたわけですし,死後も長らく無神論者というレッテルを貼られ続けていたからです。神を自己原因causa suiとみることや,本性naturaの必然性necessitasによって働くagereとして,自由な意志voluntas liberaを認めないといったことは,キリスト教の神学からは外れることなのであって,その意味においては確かにスピノザが第一部定義六でいっている神Deumは,キリスト教の神学における神とは異なるものだと解するのが適切でもあります。ただ,ニーチェからすればそれは同じことだったといえます。というのは,ニーチェがキリスト教の神というときにとりわけ意識しているのは,唯一の神という意味での神なのであって,その点ではスピノザの哲学における神も,第一部定理一四系一から分かるように,唯一の神であるからです。
グローリーヴェイズは立ち上がるような発馬で1馬身の不利。逃げるとみられたキセキもあまり発馬がよくなかったため,トーセンスーリヤの逃げになりました。2番手にワグネリアン。3番手にペルシアンナイトとダンビュライト。5番手にラッキーライラック。6番手にアフリカンゴールドとブラストワンピース。8番手にスティッフェリオ。9番手にサートゥルナーリアとクロノジェネシス。11番手にレッドジェニアルとモズベッロ。13番手にキセキ。14番手にアドマイヤアルバとグローリーヴェイズでここまでは差がなく続きました。2馬身差でトーセンカンビーナとメイショウテンゲン。最後尾にカデナという隊列。最初の1000mは60秒0のハイペース。
3コーナーを回ってトーセンスーリヤとワグネリアンの外にダンビュライトが上がり,さらにその外からラッキーライラック,クロノジェネシス,キセキの3頭。この6頭はあまり差がなく直線の入口を迎え,ラッキーライラックが一旦は先頭に立ちましたが,これをマークするようなレースになったクロノジェネシスの手応えが絶好。あっさりとラッキーライラックを差すと,そのまま抜け出し,後ろとの差を広げていって楽勝。外から追い込む競馬になったキセキが6馬身差で2着。キセキの後ろから並んで追い込んできた2頭のうち,モズベッロが5馬身差で3着。サートゥルナーリアが1馬身4分の3差で4着。
優勝したクロノジェネシスは京都記念以来の勝利。大レースは秋華賞以来の2勝目。京都記念は強力な牡馬が不在でしたが,前走の大阪杯で2着になり,牡馬が相手でも十分に戦えるということを示していました。ですから優勝自体は不思議ではないのですが,1着と2着,そして2着と3着との間にこれほどまでの差が開いたというのは,各馬の能力からすると不自然な感じがします。気象の条件とか馬場の状態が,結果に対して大きく左右したと考えられそうです。ただ,昨年よりも強くなっているということは間違いないでしょう。母の父はクロフネ。3代母がラスティックベルで,ひとつ上の半姉に一昨年の紫苑ステークスと昨年のヴィクトリアマイルと富士ステークスを勝っている現役のノームコア。
騎乗した北村友一騎手は阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース5勝目。宝塚記念は初勝利。管理している斉藤崇史調教師はNHKマイルカップ以来の大レース4勝目。宝塚記念は初勝利。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが蜘蛛に喩えているのは,スピノザではなく神です。ここでニーチェがいっている神は,キリスト教の神のことです。そして,その神が喩えられているのは蜘蛛だけではありません。一八節の冒頭では,キリスト教の神は三種類のものに喩えられていて,蜘蛛はそのひとつです。ニーチェはそこでキリスト教の神のことを,病人としての神,蜘蛛としての神,精神としての神といっています。スピノザに対する言及は,蜘蛛としての神にだけ関連していますから,ここでは蜘蛛としての神のことだけを考えていますが,それは神に対する喩えのひとつであるということだけは,ニーチェの主旨を理解する上では踏まえておいてください。
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蜘蛛としての神というのは,自らが蜘蛛となって巣を張る蜘蛛のことの筈です。神がそういう蜘蛛になったのは,ニーチェのことばを借りればスピノザの相の下にです。つまりここで蜘蛛としての神といわれているのは,スピノザの哲学あるいはニーチェのいい方では形而上学の神であると解していいでしょう。ニーチェはその神を,キリスト教の神の喩えに用いています。つまりここから,ニーチェはスピノザの哲学における神と,キリスト教の神とを,同一視しているということになります。
それを同一視することができるのかということについては,疑問の余地があるでしょう。実際にはスピノザはプロテスタントの牧師たちから非難されていたわけですし,死後も長らく無神論者というレッテルを貼られ続けていたからです。神を自己原因causa suiとみることや,本性naturaの必然性necessitasによって働くagereとして,自由な意志voluntas liberaを認めないといったことは,キリスト教の神学からは外れることなのであって,その意味においては確かにスピノザが第一部定義六でいっている神Deumは,キリスト教の神学における神とは異なるものだと解するのが適切でもあります。ただ,ニーチェからすればそれは同じことだったといえます。というのは,ニーチェがキリスト教の神というときにとりわけ意識しているのは,唯一の神という意味での神なのであって,その点ではスピノザの哲学における神も,第一部定理一四系一から分かるように,唯一の神であるからです。