富山記念の決勝。並びは村上‐稲垣の京都,元砂-椎木尾の近畿,松岡-村田の兵庫で吉田は単騎。
松岡がスタートを取って前受け。3番手に吉田,4番手に村上,6番手に元砂で周回。残り3周のホームの出口から元砂が上昇を開始。バックで松岡を叩いて前に。松岡が引いたので,このラインに続いた村上が3番手,吉田が5番手,松岡が6番手の一列棒状に。バックから村上が発進。打鐘で元砂を叩いて先行。3番手に元砂,5番手に吉田,6番手に松岡の一列棒状となってホームからバックへ。元砂が捲りにいきましたが,稲垣が阻止。そのまま稲垣が番手から発進。元砂マークの椎木尾がスイッチ。直線では差を詰めましたが届かず,優勝は稲垣。椎木尾が1車輪差で2着。吉田が外に進路を取ったので,後方からの追い込みになった松岡が椎木尾の後を追うような形で1車身半差で3着。
優勝した京都の稲垣裕之選手は昨年末から今年の年頭にかけての奈良でのFⅠ以来の優勝。グレードレースは2016年10月の寛仁親王牌以来の優勝。記念競輪はその直前の向日町記念以来で記念競輪7勝目。富山記念は初優勝。この開催も先週の福井記念と同様,中部と近畿の選手だけで7車制。浅井が絶対的な優勝候補でしたが,よもやの準決勝敗退。決勝は中部がひとりで近畿が6人という構成に。実績的には村上と稲垣が断然ですが,普段とは逆の並びとなったのがどうかと注目していました。稲垣なら先行もあり得ると思っていましたが,村上の先行は予想外。これはほかの選手たちも同様だったのではないでしょうか。バックで元砂を止めてから発進していったのが稲垣の優勝を引き寄せたように思います。
僕が感じる蜘蛛の巣の美に関しては,もうひとつだけ付け加えておきたいことがあります。
生物の巣,あるいは虫の巣に限定してもよいですが,そうした巣の形状だけでいうと,蜂の巣も蜘蛛の巣と似たような,ある種の秩序的な美しさがあると僕には感じられます。ですからその形状あるいは模様だけでいうなら,幾何学的秩序に従って論証されたエチカEthica ordine geometrico demonstrataの美しさは,蜘蛛の巣の美しさであるというのと同様に,蜂の巣の美しさであるといっても間違いではありません。ですが,『エチカ』は蜂の巣であるか蜘蛛の巣であるかと二者択一で迫られれば,僕は迷わず蜘蛛の巣であると答えます。むしろこの二者択一に限定していうなら,『エチカ』は蜂の巣ではありません。他面からいえば,スピノザ自身が蜘蛛であるか蜂であるかと問われるなら,これも迷いなく僕は蜘蛛であると答えますし,そのどちらかであるのだとすれば,蜂ではないのです。そしてそれは,形状とは異なった観点によります。つまり形状以外の部分において,スピノザは蜘蛛であり『エチカ』は蜘蛛の巣であって,蜂ではないし蜂の巣でもないのです。
では形状以外の何が僕にそう感じさせるかといえば,それは各々の巣の作成の過程にあります。蜘蛛の巣は,一匹の蜘蛛が自らの体内から紡ぎ出した糸によって作成する巣です。これに対して蜂の巣は,蜘蛛の巣と同じように,蜂自身の体内から分泌される物質によって作成されるのですが,それは一匹の蜂によって作成されるわけではなく,多くの働きバチのいわば共同作業によって作成される巣です。僕の感性では,この相違がスピノザであるか否かの相違に影響するのです。『エチカ』は一匹の体内から,それはスピノザ自身と考えてもよいですし,唯一であるとされている絶対に無限な実体substantiaすなわち神Deusでもよいのですが,その体内から紡ぎ出されるものであり,複数の協働によって作成されるものではないというのが,僕自身のイメージなのです。
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『破門の哲学』では,群れを作ることがない孤独な生物としての蜘蛛とスピノザとの結びつきには,ある必然性が感じられるという主旨の記述があります。これは僕と似た感性のように思えます。
松岡がスタートを取って前受け。3番手に吉田,4番手に村上,6番手に元砂で周回。残り3周のホームの出口から元砂が上昇を開始。バックで松岡を叩いて前に。松岡が引いたので,このラインに続いた村上が3番手,吉田が5番手,松岡が6番手の一列棒状に。バックから村上が発進。打鐘で元砂を叩いて先行。3番手に元砂,5番手に吉田,6番手に松岡の一列棒状となってホームからバックへ。元砂が捲りにいきましたが,稲垣が阻止。そのまま稲垣が番手から発進。元砂マークの椎木尾がスイッチ。直線では差を詰めましたが届かず,優勝は稲垣。椎木尾が1車輪差で2着。吉田が外に進路を取ったので,後方からの追い込みになった松岡が椎木尾の後を追うような形で1車身半差で3着。
優勝した京都の稲垣裕之選手は昨年末から今年の年頭にかけての奈良でのFⅠ以来の優勝。グレードレースは2016年10月の寛仁親王牌以来の優勝。記念競輪はその直前の向日町記念以来で記念競輪7勝目。富山記念は初優勝。この開催も先週の福井記念と同様,中部と近畿の選手だけで7車制。浅井が絶対的な優勝候補でしたが,よもやの準決勝敗退。決勝は中部がひとりで近畿が6人という構成に。実績的には村上と稲垣が断然ですが,普段とは逆の並びとなったのがどうかと注目していました。稲垣なら先行もあり得ると思っていましたが,村上の先行は予想外。これはほかの選手たちも同様だったのではないでしょうか。バックで元砂を止めてから発進していったのが稲垣の優勝を引き寄せたように思います。
僕が感じる蜘蛛の巣の美に関しては,もうひとつだけ付け加えておきたいことがあります。
生物の巣,あるいは虫の巣に限定してもよいですが,そうした巣の形状だけでいうと,蜂の巣も蜘蛛の巣と似たような,ある種の秩序的な美しさがあると僕には感じられます。ですからその形状あるいは模様だけでいうなら,幾何学的秩序に従って論証されたエチカEthica ordine geometrico demonstrataの美しさは,蜘蛛の巣の美しさであるというのと同様に,蜂の巣の美しさであるといっても間違いではありません。ですが,『エチカ』は蜂の巣であるか蜘蛛の巣であるかと二者択一で迫られれば,僕は迷わず蜘蛛の巣であると答えます。むしろこの二者択一に限定していうなら,『エチカ』は蜂の巣ではありません。他面からいえば,スピノザ自身が蜘蛛であるか蜂であるかと問われるなら,これも迷いなく僕は蜘蛛であると答えますし,そのどちらかであるのだとすれば,蜂ではないのです。そしてそれは,形状とは異なった観点によります。つまり形状以外の部分において,スピノザは蜘蛛であり『エチカ』は蜘蛛の巣であって,蜂ではないし蜂の巣でもないのです。
では形状以外の何が僕にそう感じさせるかといえば,それは各々の巣の作成の過程にあります。蜘蛛の巣は,一匹の蜘蛛が自らの体内から紡ぎ出した糸によって作成する巣です。これに対して蜂の巣は,蜘蛛の巣と同じように,蜂自身の体内から分泌される物質によって作成されるのですが,それは一匹の蜂によって作成されるわけではなく,多くの働きバチのいわば共同作業によって作成される巣です。僕の感性では,この相違がスピノザであるか否かの相違に影響するのです。『エチカ』は一匹の体内から,それはスピノザ自身と考えてもよいですし,唯一であるとされている絶対に無限な実体substantiaすなわち神Deusでもよいのですが,その体内から紡ぎ出されるものであり,複数の協働によって作成されるものではないというのが,僕自身のイメージなのです。
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『破門の哲学』では,群れを作ることがない孤独な生物としての蜘蛛とスピノザとの結びつきには,ある必然性が感じられるという主旨の記述があります。これは僕と似た感性のように思えます。