第三部定理三二の意味が明らかになることによって,僕たちは羨望するもの,すなわちそれを入手することによって喜びlaetitiaを得られるものについて,その入手の困難性が高いと表象されれば表象されるほど,より強く羨望するようになるということを論証することができます。その手続きを詳しく説明しておきましょう。
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僕たちは,それを入手することが困難であるほど,それを他者が入手することを妨害する傾向conatusが高くなります。これは相対的にいえば,自分がそれを入手する欲望cupiditasが高くなっているという意味です。つまり,入手することが容易であると表象されるものに対する欲望と,入手することが困難であると表象されるものに対する欲望は,ほかの条件が同一であれば,入手することが困難であると表象されるものに対する欲望の方が強くなるのです。おそらくこのことは,このように論理的に説明せずとも,経験的に理解できるところではないかと思います。
僕がいう羨望というのは,欲望の一種です。ですから欲望について一般的に妥当するすべての事柄は,羨望にも妥当するといわなければなりません。よって,それを入手することが困難であると表象されるものに対する羨望は,入手することが容易であると表象されるものに対する羨望よりも,ほかの条件が同一であれば強くなるのです。したがって,入手の困難性の表象imaginatioの度合が高くなれば高くなるほど,僕たちのそれに対する羨望は強くなっていくということになります。
これで,僕が規定した羨望という感情affectusが有するふたつの性質を,論理的に明らかにすることができました。ひとつは,羨望する相手に対する同類意識が高くなれば高くなるほど,僕たちが抱く羨望はより強くなるということです。そしてもうひとつが,羨望している事柄を入手することの困難性が高く表象されればされるほど,それに対する羨望はより強くなるということです。
近藤がどういった事柄を根拠として,スピノザの哲学における思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態が諸観念の総体であると解しているのかは僕には分かりません。ただ,たとえ近藤がそのことを主張しようとしているのではないにせよ,この解釈について何らの根拠も示していないということ自体が,僕には論考上の不備に該当するのではないかと思われます。そのことが正しいか誤っているかを別としても,少なくともこのことが論者の間での共通見解であるとは思われないからです。なのでまず,無限様態modus infinitusが一般的に何であるのかということを確認しておきます。スピノザの哲学では無限に多くのinfinita属性があって,それら各々の属性の無限様態が存在します。しかしながら人間が認識するcognoscereことができる属性は第二部公理五の意味により,思惟の属性と延長の属性Extensionis attributumだけですから,僕たちが考えるconcipereことができるのは,それらふたつの属性の無限様態についてだけです。
無限様態がいかにして発生するのかということを示しているのが第一部定理二一と第一部定理二二です。このうち,第一部定理二一の様式で発生する無限様態は直接無限様態といわれ,第一部定理二二の様式で発生する無限様態が間接無限様態といわれます。続く第一部定理二三は,無限様態は第一部定理二一か第一部定理二二のどちらかの様式でしか発生し得ないということをいっています。すなわち自然Naturaのうちに存在するあるいは存在し得る無限様態は,直接無限様態か間接無限様態のいずれかであることになります。
思惟の属性および延長の属性の直接無限様態と間接無限様態が何であるのかということについては,『エチカ』では言及されていません。たとえば第二部自然学②補助定理七備考では,ひとつの個体としての全自然が,延長の属性の間接無限様態であるということが暗示されているといえますが,はっきりとそのようにいわれているわけではありません。この例のように,それについて示唆的な部分は『エチカ』に含まれているといえますが,断定的にこれが無限様態であるという記述は,『エチカ』の中には一切みられないのです。なのでこれについて疑問を抱く人がいるのは自然なことといえるでしょう。
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僕たちは,それを入手することが困難であるほど,それを他者が入手することを妨害する傾向conatusが高くなります。これは相対的にいえば,自分がそれを入手する欲望cupiditasが高くなっているという意味です。つまり,入手することが容易であると表象されるものに対する欲望と,入手することが困難であると表象されるものに対する欲望は,ほかの条件が同一であれば,入手することが困難であると表象されるものに対する欲望の方が強くなるのです。おそらくこのことは,このように論理的に説明せずとも,経験的に理解できるところではないかと思います。
僕がいう羨望というのは,欲望の一種です。ですから欲望について一般的に妥当するすべての事柄は,羨望にも妥当するといわなければなりません。よって,それを入手することが困難であると表象されるものに対する羨望は,入手することが容易であると表象されるものに対する羨望よりも,ほかの条件が同一であれば強くなるのです。したがって,入手の困難性の表象imaginatioの度合が高くなれば高くなるほど,僕たちのそれに対する羨望は強くなっていくということになります。
これで,僕が規定した羨望という感情affectusが有するふたつの性質を,論理的に明らかにすることができました。ひとつは,羨望する相手に対する同類意識が高くなれば高くなるほど,僕たちが抱く羨望はより強くなるということです。そしてもうひとつが,羨望している事柄を入手することの困難性が高く表象されればされるほど,それに対する羨望はより強くなるということです。
近藤がどういった事柄を根拠として,スピノザの哲学における思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態が諸観念の総体であると解しているのかは僕には分かりません。ただ,たとえ近藤がそのことを主張しようとしているのではないにせよ,この解釈について何らの根拠も示していないということ自体が,僕には論考上の不備に該当するのではないかと思われます。そのことが正しいか誤っているかを別としても,少なくともこのことが論者の間での共通見解であるとは思われないからです。なのでまず,無限様態modus infinitusが一般的に何であるのかということを確認しておきます。スピノザの哲学では無限に多くのinfinita属性があって,それら各々の属性の無限様態が存在します。しかしながら人間が認識するcognoscereことができる属性は第二部公理五の意味により,思惟の属性と延長の属性Extensionis attributumだけですから,僕たちが考えるconcipereことができるのは,それらふたつの属性の無限様態についてだけです。
無限様態がいかにして発生するのかということを示しているのが第一部定理二一と第一部定理二二です。このうち,第一部定理二一の様式で発生する無限様態は直接無限様態といわれ,第一部定理二二の様式で発生する無限様態が間接無限様態といわれます。続く第一部定理二三は,無限様態は第一部定理二一か第一部定理二二のどちらかの様式でしか発生し得ないということをいっています。すなわち自然Naturaのうちに存在するあるいは存在し得る無限様態は,直接無限様態か間接無限様態のいずれかであることになります。
思惟の属性および延長の属性の直接無限様態と間接無限様態が何であるのかということについては,『エチカ』では言及されていません。たとえば第二部自然学②補助定理七備考では,ひとつの個体としての全自然が,延長の属性の間接無限様態であるということが暗示されているといえますが,はっきりとそのようにいわれているわけではありません。この例のように,それについて示唆的な部分は『エチカ』に含まれているといえますが,断定的にこれが無限様態であるという記述は,『エチカ』の中には一切みられないのです。なのでこれについて疑問を抱く人がいるのは自然なことといえるでしょう。