6日に神戸で指された第68期王座戦五番勝負第四局。
久保利明九段の先手でノーマル四間飛車。途中で永瀬拓矢王座の方がよくなり,そこから徐々に差を広げていく指し回し。途中は逆転は難しそうとみられていたのですが,先手の粘りに手を焼いて,なかなか勝ちきることができないまま終盤戦が長く続きました。
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後手が2筋の突破を狙って香車を打った局面。先手は☗4二角成と指しました。これは金を取って受けに使う狙い。
この局面は後手のチャンスで,☖1八金☗同玉から2七で清算し,☖2九飛成☗2八歩に☖1八角☗2六玉☖1四桂と打つ寄せがありました。とはいえ☖同銀は自然な手なので,もう40手以上1分将棋だったことも踏まえれば,これを逃したのは仕方がなかったのかもしれません。ただし☗2八金と埋められてしまいました。
先手からは☗3四桂と王手銀取りに跳ねる手が残っているので,後手も☖3一銀と戻ったのですが,これが最終的な敗着になったようです。☖2七香成☗3四桂☖3三王☗2七銀☖同銀成以下の攻め合いは,後手に分があったようです。
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第2図でも☗3四桂はあり,☖1二玉に☗1五歩と突きました。実際は☗1五歩より☗9二龍か☗4一龍の方がよかったようですが☗1五歩は次善策とでもいうべき手で,これでも先手の勝ちになっています。
久保九段が勝って2勝2敗。第五局は14日に指される予定です。
観念の対象ideatumが形相的有esse formaleである場合であれ,観念ideaとその観念の観念idea ideaeの場合であれ,同一個体を規準として考察した点では同じです。あるいは,同一個体というのはスピノザの哲学に特有の平行論から起成してくる概念notioなのですから,平行論に基づいて考察したという点では同じです。ところが各々の場合で得られた結論は異なるものとなりました。すなわち,観念と観念の観念が同一個体であるという観点から考えると,人間は無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことが可能であるという結論になります。ところが観念されたものideatumを形相的有とし,その形相的有とその観念は同一個体であるという観点から考えると,人間が無限知性を十全に認識するということは不条理なことであるという結論となってしまうのです。そしてこのとき,実はふたつの無限知性は,単に同じ語に記号化されているだけであり,実際には異なったものであるというのが僕の考えなのです。
ここで想起してほしいのは,僕がチルンハウスの誤解について,佐藤一郎が『個と無限』の中で示したのとは別の方法で考察したときの内容です。とくにそこで,実在的区別というのがいかなる区別distinguereであると解するべきなのかということについて僕が言及した内容です。僕の見解opinioでは,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものである観念は,単にAの観念とBの観念と区別された場合の区別を,一様に様態的区別であるということはできません。もしもAとBが同一の属性attributumに属する様態であれば,Aの観念とBの観念の区別も様態的区別であるということになるのですが,もしAとBが異なった属性の様態であるとすれば,AとBが実在的に区別されるように,Aの観念とBの観念も実在的に区別されなければならないのです。Aの観念もBの観念も思惟の様態ですが,だから様態的に区別されると一概にはいえないのです。
ある属性と別の属性は実在的に区別されます。第一部定義六から分かるように,神Deumの本性essentiamは,実在的に区別される無限に多くの属性infinitis attributisからなるのです。第二部定理七系は,それら無限に多くのすべての属性に妥当します。したがって,実在的に区別することが可能な無限に多くの無限知性があるということが帰結します。
久保利明九段の先手でノーマル四間飛車。途中で永瀬拓矢王座の方がよくなり,そこから徐々に差を広げていく指し回し。途中は逆転は難しそうとみられていたのですが,先手の粘りに手を焼いて,なかなか勝ちきることができないまま終盤戦が長く続きました。
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後手が2筋の突破を狙って香車を打った局面。先手は☗4二角成と指しました。これは金を取って受けに使う狙い。
この局面は後手のチャンスで,☖1八金☗同玉から2七で清算し,☖2九飛成☗2八歩に☖1八角☗2六玉☖1四桂と打つ寄せがありました。とはいえ☖同銀は自然な手なので,もう40手以上1分将棋だったことも踏まえれば,これを逃したのは仕方がなかったのかもしれません。ただし☗2八金と埋められてしまいました。
先手からは☗3四桂と王手銀取りに跳ねる手が残っているので,後手も☖3一銀と戻ったのですが,これが最終的な敗着になったようです。☖2七香成☗3四桂☖3三王☗2七銀☖同銀成以下の攻め合いは,後手に分があったようです。
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第2図でも☗3四桂はあり,☖1二玉に☗1五歩と突きました。実際は☗1五歩より☗9二龍か☗4一龍の方がよかったようですが☗1五歩は次善策とでもいうべき手で,これでも先手の勝ちになっています。
久保九段が勝って2勝2敗。第五局は14日に指される予定です。
観念の対象ideatumが形相的有esse formaleである場合であれ,観念ideaとその観念の観念idea ideaeの場合であれ,同一個体を規準として考察した点では同じです。あるいは,同一個体というのはスピノザの哲学に特有の平行論から起成してくる概念notioなのですから,平行論に基づいて考察したという点では同じです。ところが各々の場合で得られた結論は異なるものとなりました。すなわち,観念と観念の観念が同一個体であるという観点から考えると,人間は無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことが可能であるという結論になります。ところが観念されたものideatumを形相的有とし,その形相的有とその観念は同一個体であるという観点から考えると,人間が無限知性を十全に認識するということは不条理なことであるという結論となってしまうのです。そしてこのとき,実はふたつの無限知性は,単に同じ語に記号化されているだけであり,実際には異なったものであるというのが僕の考えなのです。
ここで想起してほしいのは,僕がチルンハウスの誤解について,佐藤一郎が『個と無限』の中で示したのとは別の方法で考察したときの内容です。とくにそこで,実在的区別というのがいかなる区別distinguereであると解するべきなのかということについて僕が言及した内容です。僕の見解opinioでは,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものである観念は,単にAの観念とBの観念と区別された場合の区別を,一様に様態的区別であるということはできません。もしもAとBが同一の属性attributumに属する様態であれば,Aの観念とBの観念の区別も様態的区別であるということになるのですが,もしAとBが異なった属性の様態であるとすれば,AとBが実在的に区別されるように,Aの観念とBの観念も実在的に区別されなければならないのです。Aの観念もBの観念も思惟の様態ですが,だから様態的に区別されると一概にはいえないのです。
ある属性と別の属性は実在的に区別されます。第一部定義六から分かるように,神Deumの本性essentiamは,実在的に区別される無限に多くの属性infinitis attributisからなるのです。第二部定理七系は,それら無限に多くのすべての属性に妥当します。したがって,実在的に区別することが可能な無限に多くの無限知性があるということが帰結します。