前橋競輪場で行われた昨日の第29回寛仁親王牌の決勝。並びは新田‐守沢の北日本,脇本‐東口の近畿,松浦‐橋本の中四国,山田英明‐山田庸平の兄弟で,郡司は単騎。
発走後はやや牽制になりましたが,まず脇本がスタートを取りにいきました。脇本に取られてはいけないとみたか松浦が外から追い抜いていき,松浦の前受けに。松浦を追って上がった新田が3番手に入り,5番手に郡司。6番手に脇本で8番手に山田英明という隊列に。残り3周のホームの入口から山田英明が上昇。郡司が山田庸平の後ろにスイッチ。バックで松浦が誘導との車間を開けて引いたので,山田英明以下の3人が誘導の後ろに。残り2周のホームで4番手まで引いた松浦が上昇。山田英明を叩き返して前に。ここで松浦がスピードをやや落としたところ,脇本が発進。バックで松浦を叩いて先頭に立ち,打鐘からかまし先行の形に。このラインを追った新田が松浦の前に出て,東口とは少し差のある3番手。守沢はマークしきれず,松浦がまた少し離れた4番手という隊列に。バックから新田が発進。東口は牽制することができず,脇本に迫りはしたものの,粘り切った脇本が優勝。新田が4分の3車身差で2着。東口はつきバテのレースでしたが2車身差の3着は守りました。
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優勝した福井の脇本雄太選手は7月の福井記念以来の優勝。ビッグは6月の高松宮記念杯以来の6勝目でGⅠは5勝目。寛仁親王牌は2018年以来2年ぶりの2勝目。このレースは,松浦が先頭に立ったときに少し減速しすぎたように思います。そのために,脇本にかまされるのは仕方がないものの,新田にも前に出られてしまいました。脇本と新田は松浦や郡司よりは脚力で上なので,この形になってしまうと脇本と新田の争いになってしまいます。新田はかなりいい位置を取ったといえますので,その追い上げを封じた脇本はやっぱり強かったとしかいいようがありません。
本来的に無限知性intellectus infinitusと把握されるべきものの中に,僕たちには認識するcognoscereことができない思惟の様態cogitandi modiが含まれているとするなら,僕たちがそれを十全に認識するということはできません。人間には思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性を十全には認識することができないという結論を僕が出す理由の中心は,この点にあります。そして間接無限様態が一般的に直接無限様態を原因causaとして発生する思惟の様態である以上,思惟の属性の間接無限様態を人間が認識することはできないと僕は結論づけます。第二部定理四〇から,ある観念ideaが十全な観念idea adaequataとして人間の精神mens humanaのうちに発生するためには,その人間の精神のうちにその十全な観念の原因の十全な観念があるのでなければなりませんが,そうした十全な観念は人間の精神のうちには存在することができないということが僕の結論だからです。
ところで,総体としての無限知性というのを,僕たちは必ずしも第二部定理一一系で示されたような仕方,すなわち人間の精神が無限知性の一部であるように,すべての観念は無限知性の一部を構成しなければならないという仕方で認識するかといえば,僕は必ずしもそうとはいえないのではないかと思います。いい換えれば,書簡十二でいわれているような,原因から抽象されるような仕方でのみ僕たちは認識するかといえば,必ずしもそうではないと思うのです。実際に,神Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されていなければならず,神の思惟する力potentiaは神の働く力agendi potentiaと同じであり,そうであるがゆえに,実在的に区別される無限に多くの思惟の属性の直接無限様態である無限知性が存在しなければならないということは,思惟の属性の直接無限様態についてそれを無限知性という名称で呼ぶかどうかという点さえ除くなら,僕たちは十全に認識するのです。他面からいえば,もしも思惟の属性の直接無限様態について,それを無限知性というという定義Definitioさえ与えられるなら,僕たちは僕たちには認識することができない無限知性が実在するということを,十全に認識するのです。この認識cognitioのあり方は,必ずしも原因から抽象された認識というあり方であるとはいえないのではないでしょうか。
発走後はやや牽制になりましたが,まず脇本がスタートを取りにいきました。脇本に取られてはいけないとみたか松浦が外から追い抜いていき,松浦の前受けに。松浦を追って上がった新田が3番手に入り,5番手に郡司。6番手に脇本で8番手に山田英明という隊列に。残り3周のホームの入口から山田英明が上昇。郡司が山田庸平の後ろにスイッチ。バックで松浦が誘導との車間を開けて引いたので,山田英明以下の3人が誘導の後ろに。残り2周のホームで4番手まで引いた松浦が上昇。山田英明を叩き返して前に。ここで松浦がスピードをやや落としたところ,脇本が発進。バックで松浦を叩いて先頭に立ち,打鐘からかまし先行の形に。このラインを追った新田が松浦の前に出て,東口とは少し差のある3番手。守沢はマークしきれず,松浦がまた少し離れた4番手という隊列に。バックから新田が発進。東口は牽制することができず,脇本に迫りはしたものの,粘り切った脇本が優勝。新田が4分の3車身差で2着。東口はつきバテのレースでしたが2車身差の3着は守りました。
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優勝した福井の脇本雄太選手は7月の福井記念以来の優勝。ビッグは6月の高松宮記念杯以来の6勝目でGⅠは5勝目。寛仁親王牌は2018年以来2年ぶりの2勝目。このレースは,松浦が先頭に立ったときに少し減速しすぎたように思います。そのために,脇本にかまされるのは仕方がないものの,新田にも前に出られてしまいました。脇本と新田は松浦や郡司よりは脚力で上なので,この形になってしまうと脇本と新田の争いになってしまいます。新田はかなりいい位置を取ったといえますので,その追い上げを封じた脇本はやっぱり強かったとしかいいようがありません。
本来的に無限知性intellectus infinitusと把握されるべきものの中に,僕たちには認識するcognoscereことができない思惟の様態cogitandi modiが含まれているとするなら,僕たちがそれを十全に認識するということはできません。人間には思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性を十全には認識することができないという結論を僕が出す理由の中心は,この点にあります。そして間接無限様態が一般的に直接無限様態を原因causaとして発生する思惟の様態である以上,思惟の属性の間接無限様態を人間が認識することはできないと僕は結論づけます。第二部定理四〇から,ある観念ideaが十全な観念idea adaequataとして人間の精神mens humanaのうちに発生するためには,その人間の精神のうちにその十全な観念の原因の十全な観念があるのでなければなりませんが,そうした十全な観念は人間の精神のうちには存在することができないということが僕の結論だからです。
ところで,総体としての無限知性というのを,僕たちは必ずしも第二部定理一一系で示されたような仕方,すなわち人間の精神が無限知性の一部であるように,すべての観念は無限知性の一部を構成しなければならないという仕方で認識するかといえば,僕は必ずしもそうとはいえないのではないかと思います。いい換えれば,書簡十二でいわれているような,原因から抽象されるような仕方でのみ僕たちは認識するかといえば,必ずしもそうではないと思うのです。実際に,神Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されていなければならず,神の思惟する力potentiaは神の働く力agendi potentiaと同じであり,そうであるがゆえに,実在的に区別される無限に多くの思惟の属性の直接無限様態である無限知性が存在しなければならないということは,思惟の属性の直接無限様態についてそれを無限知性という名称で呼ぶかどうかという点さえ除くなら,僕たちは十全に認識するのです。他面からいえば,もしも思惟の属性の直接無限様態について,それを無限知性というという定義Definitioさえ与えられるなら,僕たちは僕たちには認識することができない無限知性が実在するということを,十全に認識するのです。この認識cognitioのあり方は,必ずしも原因から抽象された認識というあり方であるとはいえないのではないでしょうか。