9月30日の日本テレビ盃を勝ったロードブレスの母の父はナリタトップロードです。父はサッカーボーイ。母はフローラルマジック。
2歳12月にデビューし2着。当時は同じ開催であれば何度でも新馬に出走できる制度で,折り返しの新馬で初勝利をあげました。
3歳になり初戦の特別は3着。そのままきさらぎ賞に挑戦するとこれを勝って重賞初勝利。さらに弥生賞も勝ちました。皐月賞はテイエムオペラオーの3着。ダービーはアドマイヤベガの2着。
秋は京都新聞杯で復帰しアドマイヤベガの2着。菊花賞は早めに抜け出して勝ち,重賞3勝目で大レースを制覇。有馬記念はグラスワンダーの7着と,生涯で初の大敗。
4歳春は京都記念が2着,阪神大賞典が3着で天皇賞(春)も3着。勝ったのはいずれもテイエムオペラオー。
秋初戦の京都大賞典は2着で天皇賞(秋)が5着。この2戦も勝ったのはテイエムオペラオー。この後,ステイヤーズステークスに出走。メンバー的には負けられないところでしたが4着。有馬記念はテイエムオペラオーの9着と2度目の大敗。
5歳春はこれもメンバー的に負けられないところだった京都記念で3着。しかし阪神大賞典はレコードで重賞4勝目。天皇賞(春)はまたしてもテイエムオペラオーに及ばず3着。
秋初戦の京都大賞典はフィニッシュ前で1着入線の馬が斜行したあおりで落馬。繰り上がって優勝したのはテイエムオペラオー。ジャパンカップはジャングルポケットの3着。有馬記念はマンハッタンカフェの10着と3度目の大敗。
同期のテイエムオペラオーが引退した6歳も現役を続行。京都記念で重賞5勝目をあげると阪神大賞典も連覇して重賞6勝目。しかし天皇賞(春)はマンハッタンカフェの3着でした。
秋初戦の京都大賞典は勝って重賞7勝目。天皇賞(秋)は惜しい競馬でしたがシンボリクリスエスの2着。ジャパンカップは10着と4度目の大敗。有馬記念はシンボリクリスエスの4着。ここで競走馬生活を終えました。
何度かの大敗はあったものの,きわめて安定して走った馬。負けた相手は最強クラスの馬ばかりで,逆にいえば菊花賞こそ勝ったものの,最強クラスには少しだけ足りなかった馬という評価になるでしょう。
種牡馬として活動したのは3年間。代表産駒は2007年にフローラステークスを勝ったベッラレイアになります。
その電話が終わった直後,午後8時45分に,23日に薬局で足りなかった分のインスリンが配達されました。
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12月26日,木曜日。午後9時50分に,福江島の叔父,母の弟から電話がありました。年末年始はそちらに行くので,宿泊させてほしいという依頼でした。具体的には12月28日に来て,1月4日に帰るとのことでした。もう翌々日には来るのに突然の電話のように思われるかもしれませんが,叔父にも事情があったようです。
叔父が来るのは,従妹,すなわち叔父の娘の具合が悪いからだということでした。すでに書いたように,僕は12月10日に従妹本人から電話があり,彼女が脳腫瘍であるということは知っていましたから,具合が悪いというのがそのことを意味していることはすぐに分かりました。従妹は叔父の娘ではありましたが,叔父夫婦は離婚していた関係から,親子の仲は必ずしも良いとはいえず,そのことは僕も承知していました。そもそも僕と従妹の関係が疎遠になったことには,叔父夫婦の離婚が理由としてあったといって過言ではありません。ですから,おそらく叔父は,従妹が脳腫瘍であるということは知らされてなく,この電話の少し前,つまり僕が知った後に知ることになったのだと思います。要するに従妹の症状があまりに悪いので,最後に実父にも会わせておこうという配慮が発生し,それが叔父に伝えられたということなのだと思います。もっとも僕自身は,10日の電話の内容から,従妹がそこまで重篤であるとは知りませんでしたから,ここで書いたことは,あくまでも現時点でこういうことだったのであろうと推測していることです。ただ,脳腫瘍というのが重病であることには違いがありませんから,叔父がわざわざこちらに来るということが不自然であるというようには,この時点でも感じていませんでした。
おそらく叔父は急にこちらに来ることにしたのであって,こちらでの宿泊の手配が整わなかったのだろうと思われます。それで僕に依頼したということだったのでしょう。年末年始は妹は帰ってきますが,多いときでは5人が住んでいた家ですから,叔父ひとりを泊めることには何の問題もありませんから,了承しました。
2歳12月にデビューし2着。当時は同じ開催であれば何度でも新馬に出走できる制度で,折り返しの新馬で初勝利をあげました。
3歳になり初戦の特別は3着。そのままきさらぎ賞に挑戦するとこれを勝って重賞初勝利。さらに弥生賞も勝ちました。皐月賞はテイエムオペラオーの3着。ダービーはアドマイヤベガの2着。
秋は京都新聞杯で復帰しアドマイヤベガの2着。菊花賞は早めに抜け出して勝ち,重賞3勝目で大レースを制覇。有馬記念はグラスワンダーの7着と,生涯で初の大敗。
4歳春は京都記念が2着,阪神大賞典が3着で天皇賞(春)も3着。勝ったのはいずれもテイエムオペラオー。
秋初戦の京都大賞典は2着で天皇賞(秋)が5着。この2戦も勝ったのはテイエムオペラオー。この後,ステイヤーズステークスに出走。メンバー的には負けられないところでしたが4着。有馬記念はテイエムオペラオーの9着と2度目の大敗。
5歳春はこれもメンバー的に負けられないところだった京都記念で3着。しかし阪神大賞典はレコードで重賞4勝目。天皇賞(春)はまたしてもテイエムオペラオーに及ばず3着。
秋初戦の京都大賞典はフィニッシュ前で1着入線の馬が斜行したあおりで落馬。繰り上がって優勝したのはテイエムオペラオー。ジャパンカップはジャングルポケットの3着。有馬記念はマンハッタンカフェの10着と3度目の大敗。
同期のテイエムオペラオーが引退した6歳も現役を続行。京都記念で重賞5勝目をあげると阪神大賞典も連覇して重賞6勝目。しかし天皇賞(春)はマンハッタンカフェの3着でした。
秋初戦の京都大賞典は勝って重賞7勝目。天皇賞(秋)は惜しい競馬でしたがシンボリクリスエスの2着。ジャパンカップは10着と4度目の大敗。有馬記念はシンボリクリスエスの4着。ここで競走馬生活を終えました。
何度かの大敗はあったものの,きわめて安定して走った馬。負けた相手は最強クラスの馬ばかりで,逆にいえば菊花賞こそ勝ったものの,最強クラスには少しだけ足りなかった馬という評価になるでしょう。
種牡馬として活動したのは3年間。代表産駒は2007年にフローラステークスを勝ったベッラレイアになります。
その電話が終わった直後,午後8時45分に,23日に薬局で足りなかった分のインスリンが配達されました。
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12月26日,木曜日。午後9時50分に,福江島の叔父,母の弟から電話がありました。年末年始はそちらに行くので,宿泊させてほしいという依頼でした。具体的には12月28日に来て,1月4日に帰るとのことでした。もう翌々日には来るのに突然の電話のように思われるかもしれませんが,叔父にも事情があったようです。
叔父が来るのは,従妹,すなわち叔父の娘の具合が悪いからだということでした。すでに書いたように,僕は12月10日に従妹本人から電話があり,彼女が脳腫瘍であるということは知っていましたから,具合が悪いというのがそのことを意味していることはすぐに分かりました。従妹は叔父の娘ではありましたが,叔父夫婦は離婚していた関係から,親子の仲は必ずしも良いとはいえず,そのことは僕も承知していました。そもそも僕と従妹の関係が疎遠になったことには,叔父夫婦の離婚が理由としてあったといって過言ではありません。ですから,おそらく叔父は,従妹が脳腫瘍であるということは知らされてなく,この電話の少し前,つまり僕が知った後に知ることになったのだと思います。要するに従妹の症状があまりに悪いので,最後に実父にも会わせておこうという配慮が発生し,それが叔父に伝えられたということなのだと思います。もっとも僕自身は,10日の電話の内容から,従妹がそこまで重篤であるとは知りませんでしたから,ここで書いたことは,あくまでも現時点でこういうことだったのであろうと推測していることです。ただ,脳腫瘍というのが重病であることには違いがありませんから,叔父がわざわざこちらに来るということが不自然であるというようには,この時点でも感じていませんでした。
おそらく叔父は急にこちらに来ることにしたのであって,こちらでの宿泊の手配が整わなかったのだろうと思われます。それで僕に依頼したということだったのでしょう。年末年始は妹は帰ってきますが,多いときでは5人が住んでいた家ですから,叔父ひとりを泊めることには何の問題もありませんから,了承しました。