スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

しらさぎ賞&意志作用の原因

2021-05-12 19:35:40 | 地方競馬
 第59回しらさぎ賞
 枠入りをやや嫌っていたヴィルトファンがハナに立ちましたが,外からブロンディーヴァが競りかけていきました。2馬身差でポピュラーソング。2馬身差でダノンレジーナ。3馬身差でマーガレットスカイ。2馬身差でルイドフィーネとレイチェルウーズ。2馬身差でアクアリーブル。2馬身差でライゴッド。2馬身差でレイナブローニュ。2馬身差でヒイナヅキ。2馬身差の最後尾にキョウモバライロと,発走後の直線から2コーナーにかけて逃げ争いになったこともあり,かなり縦長の隊列に。最初の600mは35秒0の超ハイペース。
 ヴィルトファンはブロンディーヴァを振り切って単騎の逃げに。最終コーナーでダノンレジーナが外から捲り上げてきて,直線の入口ではヴィルトファンの前に出ました。3番手にポピュラーソングで4番手にルイドフィーネとマーガレットスカイ。抜け出したダノンレジーナに迫ったのは一番外から伸びてきたルイドフィーネで,2頭が並んでフィニッシュ。一杯に粘ったダノンレジーナが優勝。ルイドフィーネがハナ差の2着。最終コーナーは内を回り,直線ではヴィルトファンとポピュラーソングの間から差し込んだライゴッドが1馬身半差で3着。
 優勝したダノンレジーナは前走のオープンから連勝。南関東重賞は東京シンデレラマイル以来の2勝目。ここでは能力は明らかに上。浦和の1400mは,斤量が結果に及ぼす影響がやや高い面があり,57キロを背負っている点がやや不安でしたが,2着馬も同じ斤量であったこともあり,能力通りの結果を出すことに成功しました。3着に格下の馬が突っ込んできたのはやはり斤量の有利さがあったからだと思われますが,全般的にペースが速い厳しいレースになったこともあり,総合力で優る2頭が3着をやや離す結果になったと思われます。ある程度までついていって,直線の入口では先頭というレース内容は,2着馬より上でした。父は2010年にラジオNIKKEI杯2歳ステークス,2013年にアメリカジョッキークラブカップを勝ったダノンバラードで,その父はディープインパクト、三代母がドバイソプラノの母。Reginaはイタリア語で女王。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手はブリリアントカップ以来の南関東重賞21勝目。しらさぎ賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞50勝目。第48回以来11年ぶりのしらさぎ賞2勝目。

 第二部定理四九備考が,デカルトRené Descartesに対する批判を意図しているかどうかはともかく,デカルトは自由意志voluntas liberaが人間にあることを肯定し,スピノザは否定するnegareのですから,スピノザがデカルトを批判することは間違いありません。一方,スピノザは人間が自由な意志voluntas liberaを有することは否定しますが,人間が意志を有することを否定しているわけではありません。つまり,それは自由なものではないにせよ,意志あるいは同じことですが個別の意志作用volitioを人間が有しているということは認めているのです。
                                   
 このとき,意志というのが個々の観念ideaが含んでいる肯定affirmatioと否定negatio,近藤のいい方に倣うなら,同意と不同意を意味するとしたら,デカルトは,ある観念を肯定したり否定したりすること,あるいはある観念に同意したり同意しなかったりすることについて,人間の精神mens humanaが自由に決定するdeterminareことができるといっているわけです。いい換えればある観念について,それを肯定するaffirmareこともできるし否定することもできる,あるいはある観念に同意することもできるし同意しないこともできるとデカルトはいっているのです。スピノザはこのことを否定しています。では肯定と否定,あるいは同意と不同意は,ある人間の精神のうちで,どのように決定されるのでしょうか。それを示しているのが第二部定理四八です。
 ここから分かるように,近藤がいっているのは,第二部定理四九備考でスピノザが示していることは,第二部定理四八の具体的な例であるということなのです。第二部定理九は,現実的に存在する個物res singularisの観念の原因causaは,現実的に存在する別の個物の観念であり,この関係が無限に連鎖していくということを示しています。第二部定理四八というのは,現実的に存在する意志作用について,同じことをいっています。しかし,現実的に存在する個物の観念の原因が,現実的に存在するほかの個物の観念であるということと比較して,現実的に存在する意志作用の原因については,どのように決定しているのかということが具体的には分かりにくいと思われます。ですからその実例が『エチカ』の中に示されているのだという指摘は,重要だと思いますし,とても意義があるものだと思います。
コメント
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