『漱石と三人の読者』では,漱石の作品では必ずしも小説の結末で解決が与えられるわけではないということ,また,小説の中に読者の位置が与えられていることが特徴として挙げられています。ですがこれには例外があって,その例外といえるものが『虞美人草』であると石原は指摘しています。どのような点で例外的であるのかということも含めて,この小説を僕なりに論評しておきます。
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この小説は藤尾という,才能豊かな女を中心として進捗していきます。藤尾は秀才である小野という男と結婚することを望むようになります。これは藤尾が小野に恋をしたと受け取ることもできますし,そうではなくて玉の輿に乗ろうとしたのだというように読むこともできます。これは読者の解釈に任されるのですから,僕はどちらであるともいいません。ただ藤尾は小野と結婚するために,母親とも協力して小野の気を引こうと努めます。ところが小野の方は,藤尾がそのような仕方で自分の気を引こうとしているということに嫌気がさしてしまい,別の女と結婚します。小野を失って悲嘆にくれた藤尾は結末で死んでしまうのです。
このことから,はっきりとした結末が与えられていることは明白でしょう。漱石は基本的に藤尾のように技巧を凝らして男を誘惑しようとする女は悪であると考えていて,その女が不幸に陥るようにストーリーを計画したのです。『坊っちゃん』は勧善懲悪のストーリーといわれることがありますが,実は『虞美人草』もまた,僕たちがそのように読解するかどうかは別として,漱石にとっては勧善懲悪のストーリーであったといっていいでしょう。
ただし,この小説を最も特徴づけるのは,その文章であると僕は思っています。こういういい方が適当であるかどうかは分かりませんが,『虞美人草』にはペダンティックな文章が多く含まれていて,そのために読みにくくなっていると僕は感じます。漱石はおそらく意図的にそのように書いたのだと思いますが,その意気込みは,小説という作品にとってはマイナスに働いたと思います。
後に漱石自身が,この小説は失敗作だったといっています。失敗してしまった理由はいくつか考えられますので,それについても僕の考え方をいずれ示すことにします。
ここまでにいってきたことから,僕の考察が必ずしも『スピノザ〈触発の思考〉』の主旨と関連しないであろうこと,少なくともそういうことが多くなるということは,容易に予測できると思います。これはたとえば『主体の論理・概念の倫理』を巡る探求を行ったときにも,必ずしもその主旨に沿った探求をしたわけではなく,スピノザの哲学について僕の探求心がそそられる事柄についてのみ考察をしたということと同じです。ですから書籍の主旨という観点からすれば,そこから大きくはみ出した探求をしていく場合もあるでしょう。また,スピノザ以外の思想家の思想については,その思想家の書籍にあたるのではなく,取り上げられている内容に沿って理解していくという点も同様になります。ですから僕の考察は,『スピノザ〈触発の思考〉』の論評というのとは程遠い内容になるということを,あらかじめ理解しておいてください。
この書籍は6人の思想家の,スピノザの哲学と関係する触発について指摘されているのですが,すべてで7章あります。そして第1章は,「〈良心〉の不在と偏在」というタイトルになっていて,とくに特定の思想家の触発について集中的に書かれているわけではありません。もしも強いて思想家の名を出せばそれはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheということになるのですが,ほかの思想家たちについてはその思想の全貌とスピノザ哲学との触発という観点がもたれているのに対し,ここではニーチェの思想の全貌について触れられているわけではありません。いってみればこの章は,浅野が触発というとき,それで具体的に何を意味しようとするのかということを読者に理解してもらうためのものになっています。それは浅野が意図的にそうしたというわけではないと僕は思いますが,書籍の全体としては,明らかにそのような役割が与えられているのは確かだと思います。
標題からも分かるように,この章では良心について集中的に語られています。その冒頭で,ニーチェの良心についての考え方が示されていて,それはキリスト教の原罪に関連するのだというのがニーチェの見方です。これは浅野がそういっているというだけでなく,確かなことです。
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この小説は藤尾という,才能豊かな女を中心として進捗していきます。藤尾は秀才である小野という男と結婚することを望むようになります。これは藤尾が小野に恋をしたと受け取ることもできますし,そうではなくて玉の輿に乗ろうとしたのだというように読むこともできます。これは読者の解釈に任されるのですから,僕はどちらであるともいいません。ただ藤尾は小野と結婚するために,母親とも協力して小野の気を引こうと努めます。ところが小野の方は,藤尾がそのような仕方で自分の気を引こうとしているということに嫌気がさしてしまい,別の女と結婚します。小野を失って悲嘆にくれた藤尾は結末で死んでしまうのです。
このことから,はっきりとした結末が与えられていることは明白でしょう。漱石は基本的に藤尾のように技巧を凝らして男を誘惑しようとする女は悪であると考えていて,その女が不幸に陥るようにストーリーを計画したのです。『坊っちゃん』は勧善懲悪のストーリーといわれることがありますが,実は『虞美人草』もまた,僕たちがそのように読解するかどうかは別として,漱石にとっては勧善懲悪のストーリーであったといっていいでしょう。
ただし,この小説を最も特徴づけるのは,その文章であると僕は思っています。こういういい方が適当であるかどうかは分かりませんが,『虞美人草』にはペダンティックな文章が多く含まれていて,そのために読みにくくなっていると僕は感じます。漱石はおそらく意図的にそのように書いたのだと思いますが,その意気込みは,小説という作品にとってはマイナスに働いたと思います。
後に漱石自身が,この小説は失敗作だったといっています。失敗してしまった理由はいくつか考えられますので,それについても僕の考え方をいずれ示すことにします。
ここまでにいってきたことから,僕の考察が必ずしも『スピノザ〈触発の思考〉』の主旨と関連しないであろうこと,少なくともそういうことが多くなるということは,容易に予測できると思います。これはたとえば『主体の論理・概念の倫理』を巡る探求を行ったときにも,必ずしもその主旨に沿った探求をしたわけではなく,スピノザの哲学について僕の探求心がそそられる事柄についてのみ考察をしたということと同じです。ですから書籍の主旨という観点からすれば,そこから大きくはみ出した探求をしていく場合もあるでしょう。また,スピノザ以外の思想家の思想については,その思想家の書籍にあたるのではなく,取り上げられている内容に沿って理解していくという点も同様になります。ですから僕の考察は,『スピノザ〈触発の思考〉』の論評というのとは程遠い内容になるということを,あらかじめ理解しておいてください。
この書籍は6人の思想家の,スピノザの哲学と関係する触発について指摘されているのですが,すべてで7章あります。そして第1章は,「〈良心〉の不在と偏在」というタイトルになっていて,とくに特定の思想家の触発について集中的に書かれているわけではありません。もしも強いて思想家の名を出せばそれはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheということになるのですが,ほかの思想家たちについてはその思想の全貌とスピノザ哲学との触発という観点がもたれているのに対し,ここではニーチェの思想の全貌について触れられているわけではありません。いってみればこの章は,浅野が触発というとき,それで具体的に何を意味しようとするのかということを読者に理解してもらうためのものになっています。それは浅野が意図的にそうしたというわけではないと僕は思いますが,書籍の全体としては,明らかにそのような役割が与えられているのは確かだと思います。
標題からも分かるように,この章では良心について集中的に語られています。その冒頭で,ニーチェの良心についての考え方が示されていて,それはキリスト教の原罪に関連するのだというのがニーチェの見方です。これは浅野がそういっているというだけでなく,確かなことです。