スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&先達

2022-04-04 19:12:59 | 将棋
 2日にシャトーアメーバで指された第7期叡王戦挑戦者決定戦。対戦成績は出口若武五段が2勝,服部慎一郎四段が0勝。
 振駒で服部四段の先手となり矢倉。後手が居玉のまま腰掛銀に構えて戦いに。かなり派手な応酬になりましたが,途中から先手がリードを奪ったようです。
                                      
 先手の王手に後手が逃げた局面。ここで☗2一金と指しましたが,これが失着で逆転となりました。
 後手は☖1五歩と突き☗4六飛と逃げたのに対し間髪を入れずに☖5四桂。
                                      
 これが絶妙手。☗同歩は☖5五金と打たれてしまうので☗6五玉と逃げましたが☖4六桂と後手は飛車を入手。簡単な局面ではないのですが,そのまま後手が押し切りました。
 出口五段が挑戦権を獲得するとともに,規定で六段に昇段。プロ入りから3年でタイトル戦初出場となりました。第一局は28日に指される予定です。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは良心は現実的に存在する人間にとって不要であると考えています。それは,良心の起源が原罪にあるからです。これはつまり,贖うことができない罪や,返済することができない負債は現実的に存在する人間にとって不要であるといっているのと同じことですから,ニーチェが良心は不要であるといったとしても,その理由は理解できるのではないかと思います。そして良心がない状態の人間,いい換えれば原罪や負債によって自身を苛むことがない人間のことを無垢な人間というのですから,ニーチェの思想の原理は,良心をもつより無垢であれということになります。僕の見解opinioでは,これを新約聖書に照合させていえば,使徒たちであるよりもイエスであれということになるのです。
 ニーチェは,良心を有するより無垢である方がよいという主旨のことをいうときに,ひとりの先達について触れています。それがスピノザなのです。ニーチェは,意地の悪いやり方であったけれども,スピノザはこのことに気が付いていたといっています。ニーチェは意地の悪いやり方というのを,ある日の午後にスピノザが自分自身のうちに良心の呵責conscientiae morsusが残っているかという問いを立てているうちに,世界は疚しさが創案される前の状態に戻ったのだといういい方で説明しています。これはニーチェの想像なのであって,実際にスピノザの精神mensのうちでそのような思惟作用が行われたと断定はしない方がいいでしょう。ただ,スピノザは,第四部定理八から分かるように,善悪を人間の認識cognitioに帰している,つまり普遍的な善悪があるというようには考えていませんし,第一部定理三三備考二から分かるように,Deusが善意の下にすべての事柄をなすという考え方については,きわめて否定的です。これらのことを合わせれば,ニーチェがいうように,スピノザが良心の疚しさを否定すること,他面からいえば,人間に疚しさを感じさせるだけの思惟作用としての良心を,否定しているという見方はできることになるでしょう。贖うことができない原罪も,返済することができない負債も絶対的な悪malumではあり得ないことになりますし,神が善意から良心を人間に与えるということもないからです。
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