女流棋戦の増設,スポンサーの増加,将棋会館の移転の目途と,佐藤が新会長になってからの体制は,過去に類をみないほどといっていい大きな仕事を次つぎと成し遂げました。というか,この体制は現在も継続しているのですから,成し遂げつつあるといった方がいいのかもしれません。ただ,僕は課題がないというわけではないと思っています。最後にそのことについて示して,この連載を終了させることにします。
佐藤は,前の会長であった谷川が,無実であった三浦九段に対して処分を下したために,谷川の指名を受ける形で会長となりました。つまりこれは急遽の出来事であって,このときの状況から佐藤が新会長に選出されたことからしても,いずれは佐藤が会長になったのだろうと思われますし,谷川にも佐藤にもそういう意識はあったと僕は推測しますが,その時期に佐藤が会長に就任することは,予定外であったのは間違いないでしょう。
谷川の前の会長は米長でした。米長は佐藤とは異なり,会員である棋士の全面的な支持を受けていたとはいえなかったと思います。成し遂げた大きな仕事はふたつあって,ひとつは将棋連盟を公益社団法人に移行させたことで,もうひとつは名人戦の主催を毎日新聞単独から,毎日新聞と朝日新聞の共催にしたことです。このうち,後者は毎日新聞に名人戦を単独で主催させ続けるかという形で会員の間で投票となり,それが否決される形で共催となったのですが,このときの票数は僅差でした。会員が二分されてしまったのは,ことの性質上は止むを得なかったともいえますが,その体制が必ずしも全面的には支持されていなかったことと同時に,それにもかかわらず事前の調整が不足していたことが大きく影響していたと思われます。
米長は,自身の後継者として谷川を指名。このために自身が会長のうちから谷川を理事にしました。つまり谷川は米長の後の会長になるべく,事前に会長の近くで仕事をしていたわけです。米長は会長職のまま死にましたので,谷川が会長に就任したのも,予定よりは早かったかもしれません。ただそれは既定路線であって,米長の次の会長が谷川になるということは,棋士内部だけでなく,外部の関係者も承知していたといっていいでしょう。
スピノザの哲学で良心の呵責conscientiae morsusが非道徳的なことであるとされているのは,一般に悲しみtristitiaが非道徳的であり,良心の呵責は悲しみの一種であるからです。このときに気を付けておいてほしいのは,この道徳は,能動actioと受動passioという観点から発生しているということです。したがって,悲しみはスピノザの哲学ではみっつとされる基本感情affectus primariiのひとつで,その悲しみの反対感情が喜びlaetitiaであるからといって,直ちに喜びが道徳的である,あるいは同じことですが,喜びの一種とされるすべての感情が道徳的であるといわれるわけではないのです。第三部定理五九は,能動的である喜びと欲望cupiditasがあるといっていますが,すべての喜びと欲望が能動的であるといっているわけではありません。つまり,受動的な喜びもあれば受動的な欲望もあるわけです。その限りでは喜びも欲望も非道徳的なことになるのであって,それが能動的である限りにおいて,道徳的であるといわれるのです。
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たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesや,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,基本感情としては喜びの一種です。希望に関しては定義Definitioの中でそのようにいわれていますし,高慢は第三部諸感情の定義二八説明から分かるように自己愛philautiaの特質とされていて,この自己愛というのは第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoのことであって,それは喜びの一種です。しかるにこのふたつの感情については,その定義それ自体から明らかなように,観念ideaとしてみた場合には混乱した観念idea inadaequataであって,それは第三部定理一によって受動です。なのでこれらの感情は喜びであっても必然的にnecessario非道徳的とされることになります。一方,必然的に能動とされるような感情はありません。したがって,それ自体で道徳的であるとされる感情があるわけではないのです。ですから,良心の呵責は非道徳的なことであるとされるのですが,何らかの道徳的な感情が前もってあるのではありません。感情は能動的である限りにおいては道徳的であり得るのであり,良心の呵責は能動的ではあり得ないので,それ自体で非道徳的であることになります。そしてすべての悲しみと,ある種の喜びおよび欲望は,それ自体で非道徳的であることになるのです。
佐藤は,前の会長であった谷川が,無実であった三浦九段に対して処分を下したために,谷川の指名を受ける形で会長となりました。つまりこれは急遽の出来事であって,このときの状況から佐藤が新会長に選出されたことからしても,いずれは佐藤が会長になったのだろうと思われますし,谷川にも佐藤にもそういう意識はあったと僕は推測しますが,その時期に佐藤が会長に就任することは,予定外であったのは間違いないでしょう。
谷川の前の会長は米長でした。米長は佐藤とは異なり,会員である棋士の全面的な支持を受けていたとはいえなかったと思います。成し遂げた大きな仕事はふたつあって,ひとつは将棋連盟を公益社団法人に移行させたことで,もうひとつは名人戦の主催を毎日新聞単独から,毎日新聞と朝日新聞の共催にしたことです。このうち,後者は毎日新聞に名人戦を単独で主催させ続けるかという形で会員の間で投票となり,それが否決される形で共催となったのですが,このときの票数は僅差でした。会員が二分されてしまったのは,ことの性質上は止むを得なかったともいえますが,その体制が必ずしも全面的には支持されていなかったことと同時に,それにもかかわらず事前の調整が不足していたことが大きく影響していたと思われます。
米長は,自身の後継者として谷川を指名。このために自身が会長のうちから谷川を理事にしました。つまり谷川は米長の後の会長になるべく,事前に会長の近くで仕事をしていたわけです。米長は会長職のまま死にましたので,谷川が会長に就任したのも,予定よりは早かったかもしれません。ただそれは既定路線であって,米長の次の会長が谷川になるということは,棋士内部だけでなく,外部の関係者も承知していたといっていいでしょう。
スピノザの哲学で良心の呵責conscientiae morsusが非道徳的なことであるとされているのは,一般に悲しみtristitiaが非道徳的であり,良心の呵責は悲しみの一種であるからです。このときに気を付けておいてほしいのは,この道徳は,能動actioと受動passioという観点から発生しているということです。したがって,悲しみはスピノザの哲学ではみっつとされる基本感情affectus primariiのひとつで,その悲しみの反対感情が喜びlaetitiaであるからといって,直ちに喜びが道徳的である,あるいは同じことですが,喜びの一種とされるすべての感情が道徳的であるといわれるわけではないのです。第三部定理五九は,能動的である喜びと欲望cupiditasがあるといっていますが,すべての喜びと欲望が能動的であるといっているわけではありません。つまり,受動的な喜びもあれば受動的な欲望もあるわけです。その限りでは喜びも欲望も非道徳的なことになるのであって,それが能動的である限りにおいて,道徳的であるといわれるのです。
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たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesや,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,基本感情としては喜びの一種です。希望に関しては定義Definitioの中でそのようにいわれていますし,高慢は第三部諸感情の定義二八説明から分かるように自己愛philautiaの特質とされていて,この自己愛というのは第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoのことであって,それは喜びの一種です。しかるにこのふたつの感情については,その定義それ自体から明らかなように,観念ideaとしてみた場合には混乱した観念idea inadaequataであって,それは第三部定理一によって受動です。なのでこれらの感情は喜びであっても必然的にnecessario非道徳的とされることになります。一方,必然的に能動とされるような感情はありません。したがって,それ自体で道徳的であるとされる感情があるわけではないのです。ですから,良心の呵責は非道徳的なことであるとされるのですが,何らかの道徳的な感情が前もってあるのではありません。感情は能動的である限りにおいては道徳的であり得るのであり,良心の呵責は能動的ではあり得ないので,それ自体で非道徳的であることになります。そしてすべての悲しみと,ある種の喜びおよび欲望は,それ自体で非道徳的であることになるのです。