感情の総括的定義では,感情affectusとは,精神mensが自己の身体corpusあるいは身体の一部分について,以前より大きなまたは以前より小さな存在力を肯定するaffirmare混乱した観念idea inadaequataであるといわれていて,このことの意味が感情の総括的定義説明の中で説明されていました。しかしそれと同時に,感情とは,あるものの現在によって何らかのものをほかのものよりも多く思惟するように決定される混乱した観念であるともいわれています。いい換えれば,感情についてふたつの定義Definitioがされているのです。なぜふたつの定義が必要であったのかも,この説明の中で言及されています。
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「喜びおよび悲しみの本性のほかに,欲望の本性も表現しようとしたためであった」。
スピノザは基本感情affectus primariiとして,喜びlaetitiaと悲しみtristitia,そして欲望cupiditasの三種類をあげています。このために,喜びと悲しみだけを定義すれば感情の定義として事足りるというわけではなく,欲望についても定義しなければならなかったのです。なので感情の総括的定義は,その前半部分では喜びと悲しみが,そして後半部分では欲望が定義されることになったのです。
前もっていっておいたように,この定義は第三部定義三で定義されている感情よりは幅が狭く,身体とは関係せず,精神とだけ関係するような感情の定義であり,かつ精神の能動actio Mentisとも関係せずに精神の受動passioとだけ関係するような定義です。ですからこの定義における感情は,観念としてみた場合には混乱した観念であるということになっています。なので欲望に関連する部分で,精神があるものをほかのものよりも多く思惟するように決定されるといわれているとき,この思惟作用は受動であると解さなければなりません。もっともそれは,思惟作用に決定されるといわれていることから明白だとはいえるでしょう。ただそれは同時に,この思惟作用はものを十全に認識するcognoscere思惟作用ではなく,ものを混乱して認識する思惟作用であるという意味が含まれているのであり,その点は銘記しておくべきだと僕は考えます。
隣人を愛せということが,キリスト教の教えのひとつであるということについては僕は同意します。ただそのときに,それを他人を愛せという意味に解してよいかということについては疑問をもちます。隣人という語には,隣人である人間と隣人でない人間がいるという意味が含まれているように思えるからです。少なくとも新約聖書で隣人といわれるとき,それをすべての他人というようには解せないと僕は思います。いい換えれば,キリスト教で隣人というのはイエスをキリストと認める人,つまりキリスト教徒をいうのであって,それ以外の人を愛せと教えているわけではないのだと僕は考えますし,少なくともこのような解釈も成立するのは間違いないと思います。
スピノザは,キリスト教徒だけが敬虔pietasであるといっているのではありません。たとえ無宗教の人であろうと異教徒であろうと,敬虔であることはできるし,キリスト教徒だからといって敬虔であるわけではないといっています。したがって,この観点からいうなら,隣人を愛せという教えを,一般にすべての他人を愛せといっていると解しても問題はないでしょう。しかし新約聖書に基づいて解するなら,隣人を愛せということを,他人を愛せと等置するのは,論理的な飛躍があると思います。
もうひとつの論理的飛躍は,ある人間が別の人間を愛する限りでは,人間は対立的ではないとしている点です。確かにその通りであるかもしれませんが,論理的には必ずしもそうとはいえません。なぜなら僕たちは受動passioによって人を愛するということがあるのであって,その限りでは第四部定理三四により,人間は対立的であり得るからです。実際に,AがBを愛しているとして,BがAを愛していない場合には,AとBは対立的であり得るでしょう。なので,人が他人を愛する限りで対立的ではないというなら,そこにはある論理的な飛躍があるといっていいでしょう。
スピノザは敬虔であるということについては,感情affectusそのもののことをいうのではなく,振る舞いや態度についていうのです。だから隣人を愛せという教えについても,態度や振る舞いで示されるような愛amorについて言及していると解するべきです。
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「喜びおよび悲しみの本性のほかに,欲望の本性も表現しようとしたためであった」。
スピノザは基本感情affectus primariiとして,喜びlaetitiaと悲しみtristitia,そして欲望cupiditasの三種類をあげています。このために,喜びと悲しみだけを定義すれば感情の定義として事足りるというわけではなく,欲望についても定義しなければならなかったのです。なので感情の総括的定義は,その前半部分では喜びと悲しみが,そして後半部分では欲望が定義されることになったのです。
前もっていっておいたように,この定義は第三部定義三で定義されている感情よりは幅が狭く,身体とは関係せず,精神とだけ関係するような感情の定義であり,かつ精神の能動actio Mentisとも関係せずに精神の受動passioとだけ関係するような定義です。ですからこの定義における感情は,観念としてみた場合には混乱した観念であるということになっています。なので欲望に関連する部分で,精神があるものをほかのものよりも多く思惟するように決定されるといわれているとき,この思惟作用は受動であると解さなければなりません。もっともそれは,思惟作用に決定されるといわれていることから明白だとはいえるでしょう。ただそれは同時に,この思惟作用はものを十全に認識するcognoscere思惟作用ではなく,ものを混乱して認識する思惟作用であるという意味が含まれているのであり,その点は銘記しておくべきだと僕は考えます。
隣人を愛せということが,キリスト教の教えのひとつであるということについては僕は同意します。ただそのときに,それを他人を愛せという意味に解してよいかということについては疑問をもちます。隣人という語には,隣人である人間と隣人でない人間がいるという意味が含まれているように思えるからです。少なくとも新約聖書で隣人といわれるとき,それをすべての他人というようには解せないと僕は思います。いい換えれば,キリスト教で隣人というのはイエスをキリストと認める人,つまりキリスト教徒をいうのであって,それ以外の人を愛せと教えているわけではないのだと僕は考えますし,少なくともこのような解釈も成立するのは間違いないと思います。
スピノザは,キリスト教徒だけが敬虔pietasであるといっているのではありません。たとえ無宗教の人であろうと異教徒であろうと,敬虔であることはできるし,キリスト教徒だからといって敬虔であるわけではないといっています。したがって,この観点からいうなら,隣人を愛せという教えを,一般にすべての他人を愛せといっていると解しても問題はないでしょう。しかし新約聖書に基づいて解するなら,隣人を愛せということを,他人を愛せと等置するのは,論理的な飛躍があると思います。
もうひとつの論理的飛躍は,ある人間が別の人間を愛する限りでは,人間は対立的ではないとしている点です。確かにその通りであるかもしれませんが,論理的には必ずしもそうとはいえません。なぜなら僕たちは受動passioによって人を愛するということがあるのであって,その限りでは第四部定理三四により,人間は対立的であり得るからです。実際に,AがBを愛しているとして,BがAを愛していない場合には,AとBは対立的であり得るでしょう。なので,人が他人を愛する限りで対立的ではないというなら,そこにはある論理的な飛躍があるといっていいでしょう。
スピノザは敬虔であるということについては,感情affectusそのもののことをいうのではなく,振る舞いや態度についていうのです。だから隣人を愛せという教えについても,態度や振る舞いで示されるような愛amorについて言及していると解するべきです。