28日に神田明神で指された第7期叡王戦五番勝負第一局。公式戦の対戦成績は藤井聡太叡王が4勝,出口若武六段が1勝。これは出口六段が三段だった時の対戦が含まれています。
不二家の社長による振駒で藤井叡王が先手となって相掛り。出口六段が歩得を重ねる積極的な作戦を採用。終盤の入口まで互角に進展しました。
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第1図で☖6七角と打ちましたが,これで均衡が破れました。先手は☗2四飛と回って☖2三歩に☗2六飛。後手はそこで☖3四歩と突いたのですが☗6四歩☖同歩☗7四歩が的確な攻めで先手がペースをつかみました。
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第1図ですぐに☖3四歩と突き☗同飛に☖2三角なら後手も均衡を保つことができたようです。どうも第1図に至るまでに後手は予定の変更があり,悲観していたようです。その判断の誤りが,正しい手順を選ぶのを難しくしてしまったのではないかと思います。
藤井叡王が先勝。第二局は来月15日に指される予定です。
悲しみtristitiaは必然的にnecessario受動passioですので,ここでは悲しみを例にして考えます。他面からいえば,悲しみの積極性について考えるということです。悲しみに積極的なものが含まれているということが証明できれば,残るふたつの基本感情affectus primariiである欲望cupiditasと喜びlaetitiaにも積極的なものが含まれていることは明白でしょう。
悲しみは第三部諸感情の定義三により,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioです。実はこの定義Definitioそのものの中に,悲しみには積極的なものが含まれているということが含まれています。なぜならそれは,小なる完全性への移行であるとしても,完全性であることには違いないからです。
スピノザの哲学では,完全性というのは実在性realitasと同じことを意味します。これは第二部定義六から明白です。つまりより小なる完全性への移行というのと,より小なる実在性への移行というのは同じことを意味します。そしてこの実在性というのは,力potentiaという観点からみられるその事物の本性essentiaを意味します。つまり,現実的に存在するAの本性と,現実的に存在するAの実在性というのは,同じことを異なった観点からみているのにすぎません。したがって,実在性というのはある力のことを意味します。つまり,より小なる完全性へと移行したというのは,より小なる力へと移行したということを意味します。あるいは同じことですが,より小なる完全性であるとしてもそれは完全性であるということは,より小なる力であるとしてもそれは力であるという意味です。
あるものが存在し得るとすればそれはそのものの力を意味します。それに対して存在し得ないとすれば,それはそのものの無能力impotentiaを意味します。このことはスピノザによる第一部定理一一第三の証明を導くときの前提条件なので,スピノザがこのことを認めていることは間違いありません。よって,どんなに小なる完全性あるいは小なる力であったとしても,それは積極的なあるものなのです。これは,存在し得るということは積極的なことであるといっているのと同じですから,とくに説明するまでもないでしょう。つまり,悲しみにはある積極的なものが含まれていることになるのです。いわば小なる積極性です。
不二家の社長による振駒で藤井叡王が先手となって相掛り。出口六段が歩得を重ねる積極的な作戦を採用。終盤の入口まで互角に進展しました。
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第1図で☖6七角と打ちましたが,これで均衡が破れました。先手は☗2四飛と回って☖2三歩に☗2六飛。後手はそこで☖3四歩と突いたのですが☗6四歩☖同歩☗7四歩が的確な攻めで先手がペースをつかみました。
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第1図ですぐに☖3四歩と突き☗同飛に☖2三角なら後手も均衡を保つことができたようです。どうも第1図に至るまでに後手は予定の変更があり,悲観していたようです。その判断の誤りが,正しい手順を選ぶのを難しくしてしまったのではないかと思います。
藤井叡王が先勝。第二局は来月15日に指される予定です。
悲しみtristitiaは必然的にnecessario受動passioですので,ここでは悲しみを例にして考えます。他面からいえば,悲しみの積極性について考えるということです。悲しみに積極的なものが含まれているということが証明できれば,残るふたつの基本感情affectus primariiである欲望cupiditasと喜びlaetitiaにも積極的なものが含まれていることは明白でしょう。
悲しみは第三部諸感情の定義三により,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioです。実はこの定義Definitioそのものの中に,悲しみには積極的なものが含まれているということが含まれています。なぜならそれは,小なる完全性への移行であるとしても,完全性であることには違いないからです。
スピノザの哲学では,完全性というのは実在性realitasと同じことを意味します。これは第二部定義六から明白です。つまりより小なる完全性への移行というのと,より小なる実在性への移行というのは同じことを意味します。そしてこの実在性というのは,力potentiaという観点からみられるその事物の本性essentiaを意味します。つまり,現実的に存在するAの本性と,現実的に存在するAの実在性というのは,同じことを異なった観点からみているのにすぎません。したがって,実在性というのはある力のことを意味します。つまり,より小なる完全性へと移行したというのは,より小なる力へと移行したということを意味します。あるいは同じことですが,より小なる完全性であるとしてもそれは完全性であるということは,より小なる力であるとしてもそれは力であるという意味です。
あるものが存在し得るとすればそれはそのものの力を意味します。それに対して存在し得ないとすれば,それはそのものの無能力impotentiaを意味します。このことはスピノザによる第一部定理一一第三の証明を導くときの前提条件なので,スピノザがこのことを認めていることは間違いありません。よって,どんなに小なる完全性あるいは小なる力であったとしても,それは積極的なあるものなのです。これは,存在し得るということは積極的なことであるといっているのと同じですから,とくに説明するまでもないでしょう。つまり,悲しみにはある積極的なものが含まれていることになるのです。いわば小なる積極性です。