スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザの意図&驢馬の場合

2022-08-01 19:09:17 | 哲学
 フロムErich Seligmann Frommが,スピノザの哲学における徳virtusを本性の実現とみている点に関しては,僕はフロムがスピノザを誤って解釈しているというようには考えません。ただこのこと自体は,どちらかといえばフロムが人間の徳とみなしていることなのであって,そのためにフロムがスピノザに訴求しているという面の方が強いのだろうとは思います。それでもこのことについてスピノザの哲学に訴求することが,ひどい誤りだとは僕は考えていないというように解釈してください。
                                        
 フロムは自身の徳という規範の適用に関連して,スピノザが,馬が人間に変化するのであれば,昆虫に変化した場合と同じように馬ではなくなってしまうということを援用していました。このことはスピノザの哲学の中では,徳とコナトゥスとは一部は重なるけれどもコナトゥスは徳よりも広きにわたるという観点から理解されなければならないというのが僕の見解opinioです。ただ,スピノザがこのことをいっているのは第四部序言においてなのですが,そこではそれとはまた別の観点からの記述がされています。
 第三部諸感情の定義二第三部諸感情の定義三から分かるように,スピノザは現実的に存在する人間が,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性へと移行すること,同様により小なる完全性からより大なる完全性へと移行する場合があるということは認めています。これらは人間の感情affectusについて定義される場なので,とくに人間についてこのようにいわれているわけですが,このこと自体は現実的に存在する個物res singularisにはすべて適用され得るとここでは解します。少なくとも馬とか猫といった哺乳類が喜びlaetitiaや悲しみtristitiaを感じることがあるということは,それほど違和感なく受け止められる筈ですので,そのような場合に限ってもこの考察には影響しません。
 そこで現実的にある個物が存在しているとして,その個物がより大なる完全性からより小なる完全性へと移行したとします。しかしそれは,その個物があるひとつの本性essentiaないしは形相formaから別の本性ないしは形相へと移行したということを意味するのではありません。このことをいうために,スピノザは馬が人間および昆虫に変化してしまう例を挙げ,そのことを否定しているのです。
 これでみれば分かるように,スピノザはこの例で,完全性について何かをいおうとしているのです。

 人間による選択の規準を,自由意志voluntas liberaから現実的本性actualis essentiaあるいはコナトゥスconatusへとスピノザは変更したのです。ところでこのことは,人間にだけ限定されるというわけではありません。なぜなら,この原理,すなわち選択の規準がコナトゥスであるということを決定づけるのは第三部定理七ですが,このことは人間にだけ適用されるような定理Propositioではなく,現実的に存在する個物res singularisすべてに適用されなければならない定理であることになります。したがってこのことは驢馬にも適用されるでしょう。よって,飢えと渇き,そして等距離にある食料だけを表象し,ほかには何も表象しないという驢馬が現実的に存在するとすれば,その驢馬は驢馬のコナトゥスによっていずれかの食料を選択することになります。つまり,ビュリダンの驢馬には自由意志はないということはスピノザは肯定するaffirmareのですが,だから驢馬はいずれかの食料を選択することはできないということは,スピノザは認めないのです。いい換えればこの点においては,賢者であろうと愚者であろうと変わるところがないのと同じように,人間であろうと驢馬であろうと変わるところはないのです。
 浅野は第二部定理四九備考のこの部分でスピノザが主張したかったことがあったとすれば,自由への問いを抽象的な理論上の決定determinatioの問題へと移行させてしまうことに対する批判であったという主旨のことをいっていますが,それは具体的には僕がここまでに示してきたことにあるといえます。
 このことは,そもそもビュリダンの驢馬の前提がおかしいということから明らかだと思います。仮に現実的に1頭の驢馬が存在して,その驢馬が飢餓状態にあるとします。そこでその驢馬から等距離に同一の食料があるとしたら,その驢馬がいずれの食料も選択することができずそのまま餓死をするなどということはあり得ないということが分かる筈です。その驢馬は必ずやいずれかの食料を選択し,それを食べるでしょう。そのことに自由意志があるのかないのかということとは関係ないのです。そして驢馬がそうであるのなら人間の場合にも同様です。つまりビュリダンの驢馬というのは,実は最初から成立していないような主張なのです。
コメント
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