名古屋で指された昨日の第4期清麗戦五番勝負第三局。
加藤桃子清麗の先手で里見香奈女流四冠の中飛車でしたが,先手が角道をなかなか開けなかったので,ごきげん中飛車というよりは後手の5筋位取り中飛車に近い戦型となりました。
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第1図で先手は☗7五歩と仕掛けていきました。後手は☖6三銀と引いて☗7四歩に☖同銀。
今度は☗3五歩と反対側に目を向け☖同歩に☗2五飛と浮きました。後手は☖3六歩☗同銀と突き捨てて☖6五歩と反撃。
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この反撃で後手が指しやすくなっているようです。先手は第1図から仕掛けたのならば☗3五歩のところでは☗7五歩と打った方がよく,それが無理なら第1図では☗8六歩からさらに駒組を進めるべきだったようです。実戦の手順は整合性を欠いていたようで,どちらかを選択すればまだこれからの将棋でした。
3連勝で里見四冠が清麗を奪取。第1期,2期に続いて3期目の清麗となります。
自然Naturaのうちには多種多様の個物res singularisが現実的に存在します。このために,ある特定の現実的に存在する個物を抽出したとき,その個物が,その個物にとって都合がよい変化だけ受けるということはできません。あるいは,その個物の本性essentiaのみによってすべての力potentiaを発揮するということはできません。このことを示しているのが第四部公理であることになります。このことは一般的な公理Axiomaなのであって,したがって現実的に存在する人間にも適用されなければなりません。それを示しているのが第四部定理三であるということになります。
スピノザは人間にとっての自由libertasについて論じるときには,こうした能力potentiaと結びつけます。したがって,たとえば現実的に存在する人間が無力impotentiaであるとみられる限りでは,それを自由であるとはいいません。したがって,人間には存在existentiaをやめる自由がある,いい換えればそれは人間には自殺する自由があるという意味ですが,そのような意味での自由が人間にはあるということをスピノザは認めません。なぜなら存在するということが能力で存在しないということは無能力なのですから,ある人間が自殺をするということは,その人間だけに着目するならその人間の力を表現しているのではなく無力を表現しています。このような無力をスピノザは自由とはいわないのです。
これと同様に,人間には理性ratioを用いない自由があるというなら,スピノザはそれも自由であるとは認めません。これは理性を用いるということが力とみなされるためです。なぜなら,第四部定義八でスピノザは力と徳virtusを等置していて,かつそれは人間が能動的である限りにおいてのその人間の現実的本性actualis essentiaだといわれているからです。理性は精神の能動actio Mentisですから,それは徳であり,かつ力であるということになるのです。したがってスピノザにとっての人間の自由は,まずは人間の徳のことを意味していると解するのが適切です。
浅野はこのときに,このような自由というのが,現実的に存在するある人間だけを抽出して,その人間だけで達成されるようなものではないということを強調します。第四部公理とか第四部定理三が人間の自由に関係してくるのは.こうした理由からです。
加藤桃子清麗の先手で里見香奈女流四冠の中飛車でしたが,先手が角道をなかなか開けなかったので,ごきげん中飛車というよりは後手の5筋位取り中飛車に近い戦型となりました。
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第1図で先手は☗7五歩と仕掛けていきました。後手は☖6三銀と引いて☗7四歩に☖同銀。
今度は☗3五歩と反対側に目を向け☖同歩に☗2五飛と浮きました。後手は☖3六歩☗同銀と突き捨てて☖6五歩と反撃。
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この反撃で後手が指しやすくなっているようです。先手は第1図から仕掛けたのならば☗3五歩のところでは☗7五歩と打った方がよく,それが無理なら第1図では☗8六歩からさらに駒組を進めるべきだったようです。実戦の手順は整合性を欠いていたようで,どちらかを選択すればまだこれからの将棋でした。
3連勝で里見四冠が清麗を奪取。第1期,2期に続いて3期目の清麗となります。
自然Naturaのうちには多種多様の個物res singularisが現実的に存在します。このために,ある特定の現実的に存在する個物を抽出したとき,その個物が,その個物にとって都合がよい変化だけ受けるということはできません。あるいは,その個物の本性essentiaのみによってすべての力potentiaを発揮するということはできません。このことを示しているのが第四部公理であることになります。このことは一般的な公理Axiomaなのであって,したがって現実的に存在する人間にも適用されなければなりません。それを示しているのが第四部定理三であるということになります。
スピノザは人間にとっての自由libertasについて論じるときには,こうした能力potentiaと結びつけます。したがって,たとえば現実的に存在する人間が無力impotentiaであるとみられる限りでは,それを自由であるとはいいません。したがって,人間には存在existentiaをやめる自由がある,いい換えればそれは人間には自殺する自由があるという意味ですが,そのような意味での自由が人間にはあるということをスピノザは認めません。なぜなら存在するということが能力で存在しないということは無能力なのですから,ある人間が自殺をするということは,その人間だけに着目するならその人間の力を表現しているのではなく無力を表現しています。このような無力をスピノザは自由とはいわないのです。
これと同様に,人間には理性ratioを用いない自由があるというなら,スピノザはそれも自由であるとは認めません。これは理性を用いるということが力とみなされるためです。なぜなら,第四部定義八でスピノザは力と徳virtusを等置していて,かつそれは人間が能動的である限りにおいてのその人間の現実的本性actualis essentiaだといわれているからです。理性は精神の能動actio Mentisですから,それは徳であり,かつ力であるということになるのです。したがってスピノザにとっての人間の自由は,まずは人間の徳のことを意味していると解するのが適切です。
浅野はこのときに,このような自由というのが,現実的に存在するある人間だけを抽出して,その人間だけで達成されるようなものではないということを強調します。第四部公理とか第四部定理三が人間の自由に関係してくるのは.こうした理由からです。