岸和田競輪場で争われた第3回大阪・関西万博協賛競輪の決勝。並びは岡本‐伊藤の中部,高久保‐山本の近畿,土生‐南の大阪,松岡に山口で梁田は単騎。
スタートは南と山本と岡本の取り合いに。バックに入って山本が誘導の後ろに入り,高久保の前受け。3番手に土生,5番手は内に松岡,外の梁田の併走が長く続きましたが,残り3周のホームの出口で松岡が譲り,5番手に梁田,6番手に松岡,8番手に岡本という周回になりました。バックの出口から岡本が上昇開始。松岡が続いて4人が高久保を押さえました。さらに松岡が動きバックで岡本の前に。後方から発進しようとした土生を山本が牽制。高久保が発進して松岡を叩いて打鐘。立て直した土生が発進してホームから高久保と先行争い。制したのは高久保で土生は脱落。南が山本の後ろにスイッチしました。最終コーナーから山本が少し自転車を外に出して踏み込む構えをみせると,南はその外へ。南の後ろになった松岡は高久保と山本の間を狙いました。直線は3人の争いとなりましたが,内と外からの差しを封じた山本が優勝。外の南が4分の3車輪差で2着。内の松岡が半車輪差で3着。
優勝した奈良の山本伸一選手は一昨年10月の燦燦ムーンナイトカップ以来となるGⅢ2勝目。このレースは近畿勢がふたつのラインに別れました。スタートの取り合いとなったときに,南が山本に譲りましたので,もしかしたら別ラインでも協力するようなレースになるかもしれないと思ったのですが,先行争いを繰り広げることになりました。それぞれが力を出して戦ったので,先行した高久保の番手を回った山本が有利になったということでしょう。土生がどのように考えていたのかは分かりませんが,高久保が松岡を叩きにいったときにそのままついていけばよかったのではないでしょうか。
人間の自由libertasが,現実的に存在する人間が孤立した状態にあるより,他者との共同性,あるいは他者との関係性の下でより拡充していくと浅野が指摘する理由は理解できました。ただし,この条件,すなわち他者と関係を有するという条件さえ整えば,現実的に存在する人間の自由は自動的に拡大するわけではありません。なぜなら第一部定義七でいわれていることが,現実的に存在する人間が他者と関係を有することによって自動的に整備されるわけではないからです。もっとも,この定義Definitioでいわれている自由は,神的自由であって人間的自由ではないのですから,このこと自体は当然といえば当然でしょう。とはいえ人間的自由といわれるような自由もまた,現実的に存在する人間が他者と関係をもつことによって自動的に拡充していくというわけではないのであって,そこにはさらなる条件が必要になります。それが第一部定義七でいわれているような条件に沿うような形のことであり,いい換えればそれは,現実的に存在する人間が,その人間の現実的本性actualis essentiaとして力potentiaを用いることであり,またその力を発展させていくということです。要するに,現実的に存在する人間は,他者との共同性または関係性を構築すれば,その人間の現実的本性として自動的に力を用いるようになるわけではありませんし,その力が自動的に発展していくというわけでもないのです。
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自動的ではないということは,何らかの人為的な操作が必要であるということです。つまり人為的な操作によって,現実的に存在する人間は,共同生活の下で,自由を拡大させていくことになります。そして,その導き手となるのは理性ratioであると浅野はいっています。このとき浅野は,『国家論Tractatus Theologico-Politicus』の第二章第十一節でスピノザがいっていることを援用しています。その主旨は,理性に導かれる人間は,その限りにおいてはその人間の現実的本性のみによって十全に認識される原因causaによって行動に決定されるから,そのような人間を自由という,ということです。本来なら『エチカ』から援用するのが筋だと僕は思いますが,『国家論』は『エチカ』に基づくのですし,浅野には意図があるのでこのことは問題視しません。
スタートは南と山本と岡本の取り合いに。バックに入って山本が誘導の後ろに入り,高久保の前受け。3番手に土生,5番手は内に松岡,外の梁田の併走が長く続きましたが,残り3周のホームの出口で松岡が譲り,5番手に梁田,6番手に松岡,8番手に岡本という周回になりました。バックの出口から岡本が上昇開始。松岡が続いて4人が高久保を押さえました。さらに松岡が動きバックで岡本の前に。後方から発進しようとした土生を山本が牽制。高久保が発進して松岡を叩いて打鐘。立て直した土生が発進してホームから高久保と先行争い。制したのは高久保で土生は脱落。南が山本の後ろにスイッチしました。最終コーナーから山本が少し自転車を外に出して踏み込む構えをみせると,南はその外へ。南の後ろになった松岡は高久保と山本の間を狙いました。直線は3人の争いとなりましたが,内と外からの差しを封じた山本が優勝。外の南が4分の3車輪差で2着。内の松岡が半車輪差で3着。
優勝した奈良の山本伸一選手は一昨年10月の燦燦ムーンナイトカップ以来となるGⅢ2勝目。このレースは近畿勢がふたつのラインに別れました。スタートの取り合いとなったときに,南が山本に譲りましたので,もしかしたら別ラインでも協力するようなレースになるかもしれないと思ったのですが,先行争いを繰り広げることになりました。それぞれが力を出して戦ったので,先行した高久保の番手を回った山本が有利になったということでしょう。土生がどのように考えていたのかは分かりませんが,高久保が松岡を叩きにいったときにそのままついていけばよかったのではないでしょうか。
人間の自由libertasが,現実的に存在する人間が孤立した状態にあるより,他者との共同性,あるいは他者との関係性の下でより拡充していくと浅野が指摘する理由は理解できました。ただし,この条件,すなわち他者と関係を有するという条件さえ整えば,現実的に存在する人間の自由は自動的に拡大するわけではありません。なぜなら第一部定義七でいわれていることが,現実的に存在する人間が他者と関係を有することによって自動的に整備されるわけではないからです。もっとも,この定義Definitioでいわれている自由は,神的自由であって人間的自由ではないのですから,このこと自体は当然といえば当然でしょう。とはいえ人間的自由といわれるような自由もまた,現実的に存在する人間が他者と関係をもつことによって自動的に拡充していくというわけではないのであって,そこにはさらなる条件が必要になります。それが第一部定義七でいわれているような条件に沿うような形のことであり,いい換えればそれは,現実的に存在する人間が,その人間の現実的本性actualis essentiaとして力potentiaを用いることであり,またその力を発展させていくということです。要するに,現実的に存在する人間は,他者との共同性または関係性を構築すれば,その人間の現実的本性として自動的に力を用いるようになるわけではありませんし,その力が自動的に発展していくというわけでもないのです。
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自動的ではないということは,何らかの人為的な操作が必要であるということです。つまり人為的な操作によって,現実的に存在する人間は,共同生活の下で,自由を拡大させていくことになります。そして,その導き手となるのは理性ratioであると浅野はいっています。このとき浅野は,『国家論Tractatus Theologico-Politicus』の第二章第十一節でスピノザがいっていることを援用しています。その主旨は,理性に導かれる人間は,その限りにおいてはその人間の現実的本性のみによって十全に認識される原因causaによって行動に決定されるから,そのような人間を自由という,ということです。本来なら『エチカ』から援用するのが筋だと僕は思いますが,『国家論』は『エチカ』に基づくのですし,浅野には意図があるのでこのことは問題視しません。