完全と不完全の判定の要素として,有esseを導入すると,あるものがほかのものよりも多くの有,いい換えれば実在性realitasを有すると認められる限りで,あるものはほかのものよりも完全であるということになります。また,あるものに限界とか無能力impotentiaのような否定的なものを含むということが認められるなら,そのものはその限りで不完全といわれることになります。このことから,完全性perfectioを実在性と等置する根拠が出てくることになります。
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ただしこのときに気を付けておかなければならないのは,あるものに限界なり無能impotentiaのような否定的なものが含まれるがゆえにそのものが不完全といわれるのだとしても,そのものに本来的に属するべき何かが欠けているというわけではないということです。たとえばあるものが現実的に存在するとして,そのものの存在existentiaあるいは存在の持続duratioに何らかの限界があるのだとしても,それはそれ自体では実在性であることには変わりはなく,それが実在性であるならば完全性でもあるのです。要するにあるものが不完全と認識されるというのは,それよりも完全なものと比較される限りにおいてそのようにいわれるのであって,もしもそのものがそれよりも実在性において劣るものと比較されるなら,そのものは完全とみなされることになるでしょう。
このことは一般的にいえば,事物の本性essentiaに属するものは,そのものの起成原因causa efficiensから必然的にnecessario生じるものだけであり,またそうしたものはすべて必然的に属するということに帰すことができます。ですから,AとBとが比較され,Bの方が否定的なものを多く含んでいるがゆえに不完全とみなされるとしても,それはBの本性に本来的に含まれていなければならない何かが欠けているということを意味するのではありません。なぜならAの本性とBの本性は異なる本性なのですから,Aの本性に含まれているものがBの本性に含まれていないとしても,それはBの欠陥を意味するというわけではないからです。よって完全性と実在性が等置されても,完全性は思惟の様態cogitandi modiであることになるのです。
人間の精神mens humanaを主権,人間の身体humanum corpusを民衆と仮定したとき,スピノザの哲学では人間の精神が能動actioであるときは人間の身体も能動なので,主権が能動的に働くagereためには民衆が能動的に働くのでなければなりません。したがって,主権が民衆にあるのが,主権が能動的であるための最適条件になります。つまり国家Civitasの主権者が民衆全体にあるのが最適条件となり,ネグリAntonio Negriが目指している政治体制はそういう体制であるといえます。ネグリ自身がどのように考えていたかは分かりませんが,ネグリ自身が目指そうとしていた体制は,確かにスピノザの哲学を形而上学的基礎としているとみることができるでしょう。
それからこれも現状の考察とは無関係ですが,スピノザの政治論そのもので民衆といわれるときは,ある特殊な意味があると解しておくのが安全です。というのは,民衆という語は統治者とか政治的権力の保有者あるいは実行者に対して,統治される側,あるいは政治的権力を保有したり使用したりしない者というようなイメージで解される場合があると思うのですが,スピノザの政治論を解するときはそのような理解は危険です。スピノザの政治論でいわれるような民衆というのは,数多くの市民Civesとか国民といった,多数のものというのを意味するのであって,政治的権力を保有しまた使用するか否かということは考慮されていないと解しておく方が安全です。すごく極端にいえば,ある国家の国民の中からひとりを抽出して,そのひとりからみたときに,自分以外の国民のすべてが民衆といわれているというように解しておくのがよいでしょう。もちろん政治的権力を保有したり行使したりしない者について民衆と解したとしても,それが必ず誤りerrorになるというわけではありませんが,スピノザの政治論における民衆というのは,そのことが必ずしも留意されていないという点には気を付けておくべきだと僕は思います。
それでは『スピノザ〈触発の思考〉』の考察に戻ります。
ネグリの議論がそうであったように,民衆全体が主権者となることが,スピノザの哲学を形而上学的基礎に置いた政治論としてはベストです。ただしこのこと自体は非現実的といわなければなりません。
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ただしこのときに気を付けておかなければならないのは,あるものに限界なり無能impotentiaのような否定的なものが含まれるがゆえにそのものが不完全といわれるのだとしても,そのものに本来的に属するべき何かが欠けているというわけではないということです。たとえばあるものが現実的に存在するとして,そのものの存在existentiaあるいは存在の持続duratioに何らかの限界があるのだとしても,それはそれ自体では実在性であることには変わりはなく,それが実在性であるならば完全性でもあるのです。要するにあるものが不完全と認識されるというのは,それよりも完全なものと比較される限りにおいてそのようにいわれるのであって,もしもそのものがそれよりも実在性において劣るものと比較されるなら,そのものは完全とみなされることになるでしょう。
このことは一般的にいえば,事物の本性essentiaに属するものは,そのものの起成原因causa efficiensから必然的にnecessario生じるものだけであり,またそうしたものはすべて必然的に属するということに帰すことができます。ですから,AとBとが比較され,Bの方が否定的なものを多く含んでいるがゆえに不完全とみなされるとしても,それはBの本性に本来的に含まれていなければならない何かが欠けているということを意味するのではありません。なぜならAの本性とBの本性は異なる本性なのですから,Aの本性に含まれているものがBの本性に含まれていないとしても,それはBの欠陥を意味するというわけではないからです。よって完全性と実在性が等置されても,完全性は思惟の様態cogitandi modiであることになるのです。
人間の精神mens humanaを主権,人間の身体humanum corpusを民衆と仮定したとき,スピノザの哲学では人間の精神が能動actioであるときは人間の身体も能動なので,主権が能動的に働くagereためには民衆が能動的に働くのでなければなりません。したがって,主権が民衆にあるのが,主権が能動的であるための最適条件になります。つまり国家Civitasの主権者が民衆全体にあるのが最適条件となり,ネグリAntonio Negriが目指している政治体制はそういう体制であるといえます。ネグリ自身がどのように考えていたかは分かりませんが,ネグリ自身が目指そうとしていた体制は,確かにスピノザの哲学を形而上学的基礎としているとみることができるでしょう。
それからこれも現状の考察とは無関係ですが,スピノザの政治論そのもので民衆といわれるときは,ある特殊な意味があると解しておくのが安全です。というのは,民衆という語は統治者とか政治的権力の保有者あるいは実行者に対して,統治される側,あるいは政治的権力を保有したり使用したりしない者というようなイメージで解される場合があると思うのですが,スピノザの政治論を解するときはそのような理解は危険です。スピノザの政治論でいわれるような民衆というのは,数多くの市民Civesとか国民といった,多数のものというのを意味するのであって,政治的権力を保有しまた使用するか否かということは考慮されていないと解しておく方が安全です。すごく極端にいえば,ある国家の国民の中からひとりを抽出して,そのひとりからみたときに,自分以外の国民のすべてが民衆といわれているというように解しておくのがよいでしょう。もちろん政治的権力を保有したり行使したりしない者について民衆と解したとしても,それが必ず誤りerrorになるというわけではありませんが,スピノザの政治論における民衆というのは,そのことが必ずしも留意されていないという点には気を付けておくべきだと僕は思います。
それでは『スピノザ〈触発の思考〉』の考察に戻ります。
ネグリの議論がそうであったように,民衆全体が主権者となることが,スピノザの哲学を形而上学的基礎に置いた政治論としてはベストです。ただしこのこと自体は非現実的といわなければなりません。