5日にベトナムのダナンで指された第94期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋聖が2勝,佐々木大地七段が2勝。
産経新聞の会長による振駒で藤井棋聖の先手となり,角換わり相腰掛銀。後手の佐々木七段が4筋に飛車を回る将棋になりました。
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ここで先手が最も指したかったのは☗3六歩でした。ただ☖6七金☗5九王☖3六角の進展に自信が持てなかったので断念しました。
最善手は☗5三角。☖3三玉に☗3四歩☖同銀としてから☗4四角成と切り,☖同王に☗5六桂と王手で角の利きを遮断する順でした。
後手はこの順があると知っていたので,第1図は負けと思っていたようです。ですが先手はそれが分からなかったので☗5二と☖同銀☗同金☖同玉☗6七銀と進めました。これは粘りにいったような順。
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後手は負けと思っていたのが第2図に進んだのでチャンスと感じたようです。しかしここで☖8六歩と突いたために☗1七角と打たれてチャンスを逸しました。第2図は☖4三金と上がるべきで,それなら五分の戦いでした。部分的には後手が読み勝っていたのですが,先手が粘りにいった順が五分だったので,その部分で読み負けていたのが致命傷にはならなかったという一局でした。
藤井棋聖が先勝。第二局は23日に指される予定です。
現実的にXという人間が存在していると仮定します。このXが愛amorという感情affectusを感じるとして,Xは特定の対象にだけ愛を感じるとは限りません。XはAを愛しまたBを愛し,そしてCも愛するというように,様ざまな対象を愛することがあり得ます。このとき,XのAに対する愛,Bに対する愛,Cに対する愛は,一般的にいえば同じように愛という感情ではありますが,現実的に存在するXにとっては各々が別の感情です。このことをいっているのが第三部定理五六でした。
ではXにとってそれぞれ異なるこれらの異なる感情が,一般的には愛といわれるのはなぜかといえば,第三部諸感情の定義六により,XはAの観念ideaを有する限りではそのAの観念を原因causaeとして喜びLaetitiaを感じ,Bの観念を有する限りではBの観念を原因として喜びを感じ,またCの観念を有する限りではCの観念を原因として喜びを感じるからです。このことの中に,第三部定理五六でいわれていることの論証Demonstratioが含まれているといえます。もしこれら各々の感情がXにとって同一の感情であるというなら,XにとってAの観念もBの観念もCの観念も同一であるというのと同じことであって,しかしそれをいうのは不条理であるからです。
Xにとってこれら各々の感情は別個の感情ですから,同じようにその観念を原因として喜びを感じているからといって,同じように同じだけの喜びを感じているわけではありません。どのような仕方でどれだけの喜びを感じようと,ある観念を原因として喜びを感じれば,その観念対象ideatumに愛という感情を抱いていることになるというだけのことです。したがって,XはAの観念を原因として感じる喜びよりも,Bの観念を原因として感じる喜びの方が大きいということはあり得ます。あり得るというより,現実的にはそういう場合がほとんどであるといえるでしょう。この場合はXはAもBも愛しているけれども,AよりもBをより多く愛しているといわれることになります。
第三部定理三七は,愛から生じる欲望cupiditasは,愛が大きければ大きいほど大きくなる,つまり比例関係にあるという意味のことをいっています。そしてこのことが第三部定理三九と関係してくるのです。
産経新聞の会長による振駒で藤井棋聖の先手となり,角換わり相腰掛銀。後手の佐々木七段が4筋に飛車を回る将棋になりました。
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ここで先手が最も指したかったのは☗3六歩でした。ただ☖6七金☗5九王☖3六角の進展に自信が持てなかったので断念しました。
最善手は☗5三角。☖3三玉に☗3四歩☖同銀としてから☗4四角成と切り,☖同王に☗5六桂と王手で角の利きを遮断する順でした。
後手はこの順があると知っていたので,第1図は負けと思っていたようです。ですが先手はそれが分からなかったので☗5二と☖同銀☗同金☖同玉☗6七銀と進めました。これは粘りにいったような順。
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後手は負けと思っていたのが第2図に進んだのでチャンスと感じたようです。しかしここで☖8六歩と突いたために☗1七角と打たれてチャンスを逸しました。第2図は☖4三金と上がるべきで,それなら五分の戦いでした。部分的には後手が読み勝っていたのですが,先手が粘りにいった順が五分だったので,その部分で読み負けていたのが致命傷にはならなかったという一局でした。
藤井棋聖が先勝。第二局は23日に指される予定です。
現実的にXという人間が存在していると仮定します。このXが愛amorという感情affectusを感じるとして,Xは特定の対象にだけ愛を感じるとは限りません。XはAを愛しまたBを愛し,そしてCも愛するというように,様ざまな対象を愛することがあり得ます。このとき,XのAに対する愛,Bに対する愛,Cに対する愛は,一般的にいえば同じように愛という感情ではありますが,現実的に存在するXにとっては各々が別の感情です。このことをいっているのが第三部定理五六でした。
ではXにとってそれぞれ異なるこれらの異なる感情が,一般的には愛といわれるのはなぜかといえば,第三部諸感情の定義六により,XはAの観念ideaを有する限りではそのAの観念を原因causaeとして喜びLaetitiaを感じ,Bの観念を有する限りではBの観念を原因として喜びを感じ,またCの観念を有する限りではCの観念を原因として喜びを感じるからです。このことの中に,第三部定理五六でいわれていることの論証Demonstratioが含まれているといえます。もしこれら各々の感情がXにとって同一の感情であるというなら,XにとってAの観念もBの観念もCの観念も同一であるというのと同じことであって,しかしそれをいうのは不条理であるからです。
Xにとってこれら各々の感情は別個の感情ですから,同じようにその観念を原因として喜びを感じているからといって,同じように同じだけの喜びを感じているわけではありません。どのような仕方でどれだけの喜びを感じようと,ある観念を原因として喜びを感じれば,その観念対象ideatumに愛という感情を抱いていることになるというだけのことです。したがって,XはAの観念を原因として感じる喜びよりも,Bの観念を原因として感じる喜びの方が大きいということはあり得ます。あり得るというより,現実的にはそういう場合がほとんどであるといえるでしょう。この場合はXはAもBも愛しているけれども,AよりもBをより多く愛しているといわれることになります。
第三部定理三七は,愛から生じる欲望cupiditasは,愛が大きければ大きいほど大きくなる,つまり比例関係にあるという意味のことをいっています。そしてこのことが第三部定理三九と関係してくるのです。