スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ALSOK杯王将戦&精神と身体

2024-02-09 19:12:04 | 将棋
 一昨日と昨日,立川で指された第73期王将戦七番勝負第四局。
 藤井聡太王将の先手で後手の菅井竜也八段の角道オープン三間飛車。先手がすぐに角を交換して互いに馬を作り合う乱戦から,長い中盤戦に移行。この中盤戦でリードを広げていった先手が一方的に押し切って勝つという内容になりました。ポイントとなっていると感じられたのは僕にはふたつありました。
                                        
 第1図から☖8二玉☗4七銀☖5四歩と進んでいます。
 ☖5四歩のところで☖4七同馬か☖4七同飛成で二枚換えに進めば後手がよさそうなのですが,この局面は1六の馬が睨んでいる6一の金のヒモが1枚になっている関係で,どちらも成立しないようです。これが成立しないのは後手にとってはマイナス。なので第1図では別の得になる手,たとえば☖9四歩とか☖3二銀とか☖1四歩のような手を指せば☗4七銀はなく,実戦とは別の将棋になったでしょう。
 もうひとつが封じ手のところ。
                                        
 第2図からは☖4八飛成☗同金☖3二金と進んでいます。飛車交換をしたところは後手が手番なので本来であればそれを生かして何か攻めていきたいところ。そういう手がなく金を引いて相手に手番を渡しているのでは,すでに後手が苦しそうです。つまり第2図の局面ですでに先手よしの局面になっているということなのでしょう。
 4連勝で藤井王将が防衛。第71期,72期に続く三連覇で3期目の王将獲得です。

 我思うゆえに我ありcogito, ergo sumというデカルトRené Descartesの最終結論を理解するとき,もうひとつだけ注意しておかなければならないことがあります。すでに説明したように,この命題は我は思いつつあるという単一命題であるのですが,このときに思っているのはデカルトの精神mensであってデカルトの身体corpusではありません。つまりデカルトがいっているのは,自分はあらゆる観念ideaについてそれを疑っているのであって,このことは夢を見ているとか神Deusが欺瞞者として自分を騙そうとしているという疑いすらもつことができないような思惟作用であるがゆえに,そのようにすべてを疑っている自分の精神が存在しているということは疑い得ないこと,つまり絶対的に正しいことなのであるということなのであって,デカルトの身体があるということについてはデカルトは絶対的に正しいこともしくは疑い得ないことであるとは考えていません。むしろデカルトの身体がが存在するということについては,デカルトは疑いdubitatioを有しているのです。このことは,デカルトの身体が存在するということを認識するcognoscereのもデカルトの精神であって,それはデカルトの身体の観念としてデカルトの精神ないしは知性intellectusのうちに生じるのですが,この様式で発生する観念についてはそのすべてを疑い得るとデカルトが判断していることから明らかであるといわなければなりません。
 このことはたぶん,スピノザの哲学でいわれていることを利用した方が分かりやすいと思います。スピノザによれば僕たちは,第二部定理一九の様式のみによって自分の身体が存在することを知ります。したがって僕たちが自分の身体が存在するということを知るのは,外部の物体corpusによって自分の身体が刺激されるafficiことを通してだけなのです。これはつまり,自分の身体が現実的に存在するということを現実的に存在する人間が知覚するpercipereのは,外部の物体によって自分の身体が刺激され,そのことによって自分の精神のうちに自分の身体の観念が発生する場合だけであるということを意味します。ところがこのような様式で自分の精神のうちに発生するすべての観念については,それを疑うことができるというのがデカルトの中間結論でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする