日本時間で昨日の深夜にカタールのアルライヤン競馬場で行われた2024アミールトロフィーGⅢ芝2400m。
ノースブリッジがレースの序盤は逃げてサトノグランツが2番手。ゼッフィーロは最後尾に控えました。1周目の正面に入って外から勝つことになるUAEのレベルスロマンスがノースブリッジの前に出て,ここからはレベルスロマンスの逃げに。ノースブリッジが内の2番手になりましたが,行きたがるのをかなり宥めるような形。サトノグランツはその外へ。ゼッフィーロは内を回って最後尾を併走するような隊列になりました。直線を迎える前に外に出されて漸進していたゼッフィーロは直線は大外から追われましたが,すぐに左によれてしまいました。立て直されると再びぐんぐんと追い込んできたのですが,その時点では途中からの逃げになったレベルスロマンスがセーフティリードを築いていて,2着まで。ノースブリッジとサトノグランツで3着争いとなり,外のサトノグランツが3着。ノースブリッジが4着。
このレースは勝ったレベルスロマンスが一昨年のブリーダーズカップターフなどGⅠで3勝をあげていて実績最上位。大レースを勝っていない日本馬がその後ろを占めたのですから,概ね能力通りの結果で,3頭とも健闘したといっていいのではないかと思います。ただゼッフィーロが最初からまっすぐに伸びていれば,最後の脚からしてもっと詰め寄ることができていた筈で,その点は残念ではありました。
現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるのであれば,その人間の精神のうちにはXの十全な観念の観念idea ideaeがあり,その観念はXの十全な観念が神Deusに帰せられるのと同じように神に帰せられます。よってこの人間は自身がXの十全な観念を有しているということを知り得るので,そのことを疑うことはできません。一方,Xの混乱した観念idea inadaequataがある場合も,Xの混乱した観念の観念がXの混乱した観念が神に帰せられるのと同じように神に帰せられるので,その人間の精神のうちにXの混乱した観念の観念があることになり,その人間は自身がXの観念を有しているということを知ることはできるのですが,この場合はXの混乱した観念の観念自体が混乱した観念であることになるので,その人間はXの混乱した観念が,十全な観念であるか混乱した観念であるのかは分からないという意味で,それを疑うことができるというのがスピノザの主張です。

この主張からいくつかのことが分かります。
まず,十全な観念は,それ自体が十全な観念であるということを知性intellectusに教えることができるのに対し,混乱した観念は,それが十全な観念であるということを知性に教えることができないのはもちろんのこと,それが混乱した観念であるということも知性に教えることはできないということです。というのは,もしも混乱した観念が,それが混乱した観念であるということを知性に教えることができるのであれば,知性は自身がXの混乱した観念を有しているということを知ることができるでしょう。したがって自身がXの混乱した観念を有しているということ,他面からいえばその観念はXについて確実ではないということについては知ることができる,つまり疑い得ないといわなければなりませんが,スピノザの主張ではそうなっていません。むしろXについて確実であるかどうかを知ることができないとなっています。確実であるかどうかを知ることができないので,そのことについて疑い得るということができるからです。
ここから分かるように,十全な観念と混乱した観念の相違を知性に教えるのは十全な観念であり,十全な観念だけであることになります。
ノースブリッジがレースの序盤は逃げてサトノグランツが2番手。ゼッフィーロは最後尾に控えました。1周目の正面に入って外から勝つことになるUAEのレベルスロマンスがノースブリッジの前に出て,ここからはレベルスロマンスの逃げに。ノースブリッジが内の2番手になりましたが,行きたがるのをかなり宥めるような形。サトノグランツはその外へ。ゼッフィーロは内を回って最後尾を併走するような隊列になりました。直線を迎える前に外に出されて漸進していたゼッフィーロは直線は大外から追われましたが,すぐに左によれてしまいました。立て直されると再びぐんぐんと追い込んできたのですが,その時点では途中からの逃げになったレベルスロマンスがセーフティリードを築いていて,2着まで。ノースブリッジとサトノグランツで3着争いとなり,外のサトノグランツが3着。ノースブリッジが4着。
このレースは勝ったレベルスロマンスが一昨年のブリーダーズカップターフなどGⅠで3勝をあげていて実績最上位。大レースを勝っていない日本馬がその後ろを占めたのですから,概ね能力通りの結果で,3頭とも健闘したといっていいのではないかと思います。ただゼッフィーロが最初からまっすぐに伸びていれば,最後の脚からしてもっと詰め寄ることができていた筈で,その点は残念ではありました。
現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるのであれば,その人間の精神のうちにはXの十全な観念の観念idea ideaeがあり,その観念はXの十全な観念が神Deusに帰せられるのと同じように神に帰せられます。よってこの人間は自身がXの十全な観念を有しているということを知り得るので,そのことを疑うことはできません。一方,Xの混乱した観念idea inadaequataがある場合も,Xの混乱した観念の観念がXの混乱した観念が神に帰せられるのと同じように神に帰せられるので,その人間の精神のうちにXの混乱した観念の観念があることになり,その人間は自身がXの観念を有しているということを知ることはできるのですが,この場合はXの混乱した観念の観念自体が混乱した観念であることになるので,その人間はXの混乱した観念が,十全な観念であるか混乱した観念であるのかは分からないという意味で,それを疑うことができるというのがスピノザの主張です。

この主張からいくつかのことが分かります。
まず,十全な観念は,それ自体が十全な観念であるということを知性intellectusに教えることができるのに対し,混乱した観念は,それが十全な観念であるということを知性に教えることができないのはもちろんのこと,それが混乱した観念であるということも知性に教えることはできないということです。というのは,もしも混乱した観念が,それが混乱した観念であるということを知性に教えることができるのであれば,知性は自身がXの混乱した観念を有しているということを知ることができるでしょう。したがって自身がXの混乱した観念を有しているということ,他面からいえばその観念はXについて確実ではないということについては知ることができる,つまり疑い得ないといわなければなりませんが,スピノザの主張ではそうなっていません。むしろXについて確実であるかどうかを知ることができないとなっています。確実であるかどうかを知ることができないので,そのことについて疑い得るということができるからです。
ここから分かるように,十全な観念と混乱した観念の相違を知性に教えるのは十全な観念であり,十全な観念だけであることになります。