『ドストエフスキー 黒い言葉』の中で『白痴』の主人公であるムイシュキン公爵と,それを描こうとした作者であるドストエフスキーについて語られているのですが,それについてなるほどと思うことがありました。
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ドストエフスキーは,『白痴』を書くにあたって,この上なく美しい人物を描こうとしました。それが主人公であるムイシュキンとして結実したのです。そして同時に,ムイシュキンというのはキリストになぞらえられる人物であったわけです。つまりこの上なく美しい人物を描くということは,現代のキリスト,現代といってもそれはドストエフスキーが『白痴』を書いている時代の現代ですが,その現代におけるキリストを描こうという意欲をドストエフスキーはもっていたということになります。
一方,美という概念は,それ自体が『白痴』の中で,あるいはムイシュキンにとって,意味のあるものになっています。ムイシュキンは美が世界を救うという確信を持った人物であるとされているからです。もちろんこのムイシュキンの考えには,作者であるドストエフスキーの考えが反映されているとみていいでしょう。ただしムイシュキンは,観念的に美が世界を救うと考えていたのではないと亀山は指摘します。これはむしろムイシュキンの信念なのであって,美が世界を救うというのは,神に変わって美が世界を救うのだという考えだったのだと亀山はいっています。
この信念はドストエフスキーにもあったのだと考えることができます。ただしそれは,僕などからみれば,やや屈折した面をもっているようにみえるのです。ムイシュキンはキリストになぞらえられる人物だったのですから,先述したようにドストエフスキーの本来の意図はキリストをその時代によみがえらせることにあった筈なのです。しかしそれを,美と関連させてドストエフスキーは描きました。他面からいえば,美という観念がなければ,キリストをよみがえらせることはできないという思いが,同時にドストエフスキーのうちにはあったということになるからです。
このデカルトRené Descartesとスピノザの間の相違は,確実性certitudoのしるしsignumとか確実性の指標といったものを想定し,それはそれぞれにとって何であるかというように考えれば,より容易に理解することができるでしょう。デカルトにとって確実性の指標は,知性intellectusのうちにある神Deusの十全な観念idea adaequataであって,それ以外ではありません。したがって,現実的に存在するAという人間の精神mens humanaのうちに,Xの観念があるというとき,仮にそのXの観念が十全な観念であるとしても,AはXについて確実であるとはいえません。しかしもしもAのうちに神の十全な観念があるのであれば,AはXについて確実であることができます。他面からいえば,Aの精神のうちにXの十全な観念があるとしても,神の十全な観念がないのであれば,AはXについて確実であることはできないのです。そしてこのことが,不確実性にも妥当します。Aの精神のうちにXの十全な観念があっても,神の十全な観念がないのであれば,AはXについて不確実であることになります。そして逆に,Aの精神のうちに神の十全な観念があって,Xの混乱した観念idea inadaequataがある場合にも,AはXについて不確実であるということになります。とくにこの場合は,Aは自身がXについて不確実であることを知ることができるということになるのです。
スピノザの哲学の場合は,確実性の指標というのは単に観念対象ideatumの十全な観念です。したがって,現実的に存在するAという人間の精神のうちにXの観念があって,その観念が十全な観念であるのなら,それだけでAはXについて確実であることができます。そして同時に自身がXについて確実であるということを知ることができるのです。しかしそれがXの混乱した観念であるなら,この限りにおいてAはXについて確実であることはできません。ただし指標はあくまでもXの十全な観念なのですから,AはXについて不確実であるということは必ずしもできないのであって,AはXについて確実であるか不確実であるか分からないということになります。それが分からないので,AはXについて疑い得るのですが,疑い得るということと不確実であるということが,スピノザの哲学では一致しないのです。
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ドストエフスキーは,『白痴』を書くにあたって,この上なく美しい人物を描こうとしました。それが主人公であるムイシュキンとして結実したのです。そして同時に,ムイシュキンというのはキリストになぞらえられる人物であったわけです。つまりこの上なく美しい人物を描くということは,現代のキリスト,現代といってもそれはドストエフスキーが『白痴』を書いている時代の現代ですが,その現代におけるキリストを描こうという意欲をドストエフスキーはもっていたということになります。
一方,美という概念は,それ自体が『白痴』の中で,あるいはムイシュキンにとって,意味のあるものになっています。ムイシュキンは美が世界を救うという確信を持った人物であるとされているからです。もちろんこのムイシュキンの考えには,作者であるドストエフスキーの考えが反映されているとみていいでしょう。ただしムイシュキンは,観念的に美が世界を救うと考えていたのではないと亀山は指摘します。これはむしろムイシュキンの信念なのであって,美が世界を救うというのは,神に変わって美が世界を救うのだという考えだったのだと亀山はいっています。
この信念はドストエフスキーにもあったのだと考えることができます。ただしそれは,僕などからみれば,やや屈折した面をもっているようにみえるのです。ムイシュキンはキリストになぞらえられる人物だったのですから,先述したようにドストエフスキーの本来の意図はキリストをその時代によみがえらせることにあった筈なのです。しかしそれを,美と関連させてドストエフスキーは描きました。他面からいえば,美という観念がなければ,キリストをよみがえらせることはできないという思いが,同時にドストエフスキーのうちにはあったということになるからです。
このデカルトRené Descartesとスピノザの間の相違は,確実性certitudoのしるしsignumとか確実性の指標といったものを想定し,それはそれぞれにとって何であるかというように考えれば,より容易に理解することができるでしょう。デカルトにとって確実性の指標は,知性intellectusのうちにある神Deusの十全な観念idea adaequataであって,それ以外ではありません。したがって,現実的に存在するAという人間の精神mens humanaのうちに,Xの観念があるというとき,仮にそのXの観念が十全な観念であるとしても,AはXについて確実であるとはいえません。しかしもしもAのうちに神の十全な観念があるのであれば,AはXについて確実であることができます。他面からいえば,Aの精神のうちにXの十全な観念があるとしても,神の十全な観念がないのであれば,AはXについて確実であることはできないのです。そしてこのことが,不確実性にも妥当します。Aの精神のうちにXの十全な観念があっても,神の十全な観念がないのであれば,AはXについて不確実であることになります。そして逆に,Aの精神のうちに神の十全な観念があって,Xの混乱した観念idea inadaequataがある場合にも,AはXについて不確実であるということになります。とくにこの場合は,Aは自身がXについて不確実であることを知ることができるということになるのです。
スピノザの哲学の場合は,確実性の指標というのは単に観念対象ideatumの十全な観念です。したがって,現実的に存在するAという人間の精神のうちにXの観念があって,その観念が十全な観念であるのなら,それだけでAはXについて確実であることができます。そして同時に自身がXについて確実であるということを知ることができるのです。しかしそれがXの混乱した観念であるなら,この限りにおいてAはXについて確実であることはできません。ただし指標はあくまでもXの十全な観念なのですから,AはXについて不確実であるということは必ずしもできないのであって,AはXについて確実であるか不確実であるか分からないということになります。それが分からないので,AはXについて疑い得るのですが,疑い得るということと不確実であるということが,スピノザの哲学では一致しないのです。