⑲-10の第2図で⑲-13の第2図の変化が負けであることを理解した先手は,☗7四銀とは打たずに☗2二角成と金を取りました。

これは⑲-13の第2図の変化に進んだときに☖同馬と取ることができるというのが主旨で,こうしておいてから☗7四銀と打とうという狙いです。
ただしこの手には大きな難点がありました。それは第1図自体が後手玉に対する詰めろにはなっていないということです。つまりこの局面で後手は一手の余裕を得ることができ,それが後手の勝利に直結しました。なので第1図は局面としては逆転していて後手の勝ちです。
まず☖7八金と王手をして☗5九玉と逃げたところで☖5四歩と金を取ります。

この手が発生したのが後手には大きかったです。この手は先手玉に対する詰めろにはなっていないのですが,先手玉が上部に脱出するのを防ぐ手になっています。さらに先手の馬筋をずらしさえすれば先手の玉が詰むようになっているのです。
⑲-10の第2図で,☗7四銀でも☗2二角成でも先手の負けなら,その時点ですでに先手には勝ちがなかったように思えます。しかし実際にはそうではありません。ふたつの手の思想をミックスすれば,先手に勝ちが残っていたのです。
母方の祖父の名前を次男が受け継ぐこともこの当時の慣習であったようです。なのでバルーフBaruchという名前を受け継いだスピノザは,次男ということになります。したがって残るガブリエルは三男ということになります。つまりスピノザにはイサークという兄がいて,ガブリエルという弟がいたということは,史実として確定させてよさそうです。
ガブリエルがスピノザの弟であったことは,ほかの要素からもうかがうことができます。スピノザは父であるミカエルが死んだ後,店を相続して商人として活動していました。この店の名前がベントーとガブリエル・デ・スピノザ商会でした。ベントーというのはバルーフのポルトガル語です。兄弟で店を経営してその名を店舗の名称とするなら,普通は兄の名前が先で弟の名前が後になるのではないでしょうか。このことからも,スピノザが兄でガブリエルが弟だったことが推測されます。なお,兄であるイサークはこの時点ですでに死んでいたので,店を相続することは不可能でした。イサークが死んだのはスピノザが17歳のときであったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定的に記述されています。
残るふたりの姉妹がどういう順で産まれたのかを史実として確定させるのは難しいと吉田はいっています。まず確定できるのは,ミリアムはスピノザの姉であるということです。これは1650年6月にミリアムが結婚したときに出された婚姻届からはっきりしていて,その時点でミリアムは21歳とされています。スピノザが産まれたのは1632年ですから,このとき17歳か18歳です。つまりミリアムはスピノザよりも3つか4つ上の姉だったことになります。
イサークとミリアムのどちらが年上かは確定できないようです。一般的にはイサークが先に産まれ,ミリアムがその後に産まれたとしている伝記が多いです。つまりイサークが兄でミリアムが妹というものです。しかし吉田は,ミリアムが姉でイサークが弟ではないかという説を呈示しています。これは5人の母の経歴と関係します。
スピノザの母であるハンナは,父のミカエルにとって最初の妻ではありませんでした。前妻のラヘルとの死別後の再婚相手だったのです。

これは⑲-13の第2図の変化に進んだときに☖同馬と取ることができるというのが主旨で,こうしておいてから☗7四銀と打とうという狙いです。
ただしこの手には大きな難点がありました。それは第1図自体が後手玉に対する詰めろにはなっていないということです。つまりこの局面で後手は一手の余裕を得ることができ,それが後手の勝利に直結しました。なので第1図は局面としては逆転していて後手の勝ちです。
まず☖7八金と王手をして☗5九玉と逃げたところで☖5四歩と金を取ります。

この手が発生したのが後手には大きかったです。この手は先手玉に対する詰めろにはなっていないのですが,先手玉が上部に脱出するのを防ぐ手になっています。さらに先手の馬筋をずらしさえすれば先手の玉が詰むようになっているのです。
⑲-10の第2図で,☗7四銀でも☗2二角成でも先手の負けなら,その時点ですでに先手には勝ちがなかったように思えます。しかし実際にはそうではありません。ふたつの手の思想をミックスすれば,先手に勝ちが残っていたのです。
母方の祖父の名前を次男が受け継ぐこともこの当時の慣習であったようです。なのでバルーフBaruchという名前を受け継いだスピノザは,次男ということになります。したがって残るガブリエルは三男ということになります。つまりスピノザにはイサークという兄がいて,ガブリエルという弟がいたということは,史実として確定させてよさそうです。
ガブリエルがスピノザの弟であったことは,ほかの要素からもうかがうことができます。スピノザは父であるミカエルが死んだ後,店を相続して商人として活動していました。この店の名前がベントーとガブリエル・デ・スピノザ商会でした。ベントーというのはバルーフのポルトガル語です。兄弟で店を経営してその名を店舗の名称とするなら,普通は兄の名前が先で弟の名前が後になるのではないでしょうか。このことからも,スピノザが兄でガブリエルが弟だったことが推測されます。なお,兄であるイサークはこの時点ですでに死んでいたので,店を相続することは不可能でした。イサークが死んだのはスピノザが17歳のときであったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定的に記述されています。
残るふたりの姉妹がどういう順で産まれたのかを史実として確定させるのは難しいと吉田はいっています。まず確定できるのは,ミリアムはスピノザの姉であるということです。これは1650年6月にミリアムが結婚したときに出された婚姻届からはっきりしていて,その時点でミリアムは21歳とされています。スピノザが産まれたのは1632年ですから,このとき17歳か18歳です。つまりミリアムはスピノザよりも3つか4つ上の姉だったことになります。
イサークとミリアムのどちらが年上かは確定できないようです。一般的にはイサークが先に産まれ,ミリアムがその後に産まれたとしている伝記が多いです。つまりイサークが兄でミリアムが妹というものです。しかし吉田は,ミリアムが姉でイサークが弟ではないかという説を呈示しています。これは5人の母の経歴と関係します。
スピノザの母であるハンナは,父のミカエルにとって最初の妻ではありませんでした。前妻のラヘルとの死別後の再婚相手だったのです。