スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

北条早雲杯争奪戦&コレルス

2024-08-27 19:00:50 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは新村‐北井‐松井‐郡司‐和田‐松坂‐鈴木の南関東,脇本に阿部。
 郡司がスタートを取って新村の前受け。脇本が8番手で周回。残り3周に入って脇本が鈴木との車間を開けると新村も誘導との車間を開けました。バックに入って新村が徐々にスピードアップ。誘導が退避する残り2周半から全力で駆けていきました。相変わらず鈴木と脇本の車間が開いての一列棒状でそのまま打鐘。ここから脇本が発進していきましたが,ホームの入口では北井が番手から発進。脇本も内に入ろうとした阿部も苦しくなりました。バックの出口から松井が北井を抜きにかかりましたが,北井が抵抗したので前に出るのにやや苦労しました。直線の入口では松井が前に出ましたが,番手の郡司が差し切って優勝。松井が半車輪差で2着。直線まで内を閉めて回った和田が2車身差で3着。北井が半車輪差の4着で地元勢の上位独占。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は2走前の川崎のFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースは2月の全日本選抜競輪以来の優勝で記念競輪はその直前の川崎記念以来となる20勝目。小田原記念は2016年,2018年,2019年,2023年と優勝していて連覇となる5勝目。このレースはラインの厚みが違いすぎるので,いかに脇本の脚力をもってしても苦しそうだと思えました。先頭を回る新村が経験の浅い選手だった点は不安でしたが,しっかりと自分の仕事をしたので,地元勢の争いになりました。このように走れるのであれば,前受けできた時点で優勝は地元勢から出ることが決定していたといっていいでしょう。松井が勝ちにいったところで北井も勝つための抵抗をした分,松井マークに回った郡司が有利になったということだと思います。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaを扱うときには気をつけておかなければならないことがいくつかありますので,それを改めて確認しておきます。
                           
 コレルスJohannes Colerusは1679年にアムステルダムAmsterdamにルター派の牧師として派遣されました。そして1693年にハーグDen Haagに移っています。スピノザがハーグで死んだのは1677年2月ですから,コレルスがオランダに派遣された時点ですでにスピノザは死んでいましたし,ハーグに移った時点では16年が経過していたことになります。したがってコレルスはスピノザと面識があったわけではありません。ですからコレルスが書いているスピノザの伝記は,コレルス自身が見たことではなく,コレルスが調査をした結果がすべてだったことになります。
 ハーグに移った時にコレルスが住んだのが,ウェルフェという寡婦がかつて住居としていた家です。スピノザはスペイクの家に移る前に,そこに住んでいたことがありました。ただウェルフェはこの時点で死んでいたので,コレルスはウェルフェからはスピノザについて何かを聞くことはできませんでした。しかし牧師としてハーグで活動し始めたコレルスのところに,スペイクが説教を聞きに来たため,コレルスはスペイクと知り合うことになりました。スペイクはまだスピノザの存命中から牧師の説教を聞きに行くことがあったようですから,牧師がコレルスに変わっても引き続き説教を聞きに行ったということでしょう。スピノザはウェルフェの家を出た後はスペイクの家に間借りしていたわけですから,スペイクはスピノザのことをよく知っていました。なのでコレルスはスペイクからスピノザのことを聞き取ることができました。つまりコレルスの伝記の主要部分は,スペイクからの聞き取り調査によって構成されています。
 スピノザは遺稿集Opera Posthumaが即座に発禁処分を科されたことからも分かるように,無神論者として悪名高き人物でした。なのでハーグに移る以前から,コレルスがスピノザのことを知っていたという可能性はあると僕は思っています。ところがスペイクから聞いたスピノザの様子は,とても無神論者から程遠いものであったので,たぶんコレルスは意外に感じたのではないでしょうか。
コメント
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