スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

レディスプレリュード&医師

2024-10-02 18:57:59 | 地方競馬
 昨晩の第21回レディスプレリュード
 アイコンテーラーとアーテルアストレアは立ち遅れて1馬身の不利。ヴィブラフォンが前に出ると立ち遅れたアイコンテーラーが外から追い上げていきましたが前に出るには至らず2番手。2馬身差でラブラブパイロとライオットガール。2馬身差でグランブリッジ。2馬身差でアーテルアストレア。2馬身差の最後尾にアンティキティラという隊列。最初の800mは51秒0のミドルペース。
 向正面の半ばから3番手併走だったラブラブパイロが遅れはじめ,単独の3番手となったライオットガールが前との差を詰めていき,グランブリッジが4番手に。直線の入口ではヴィブラフォンとアイコンテーラーが併走となり,その外にライオットガールとグランブリッジ。コーナーは内を回って追い上げてきたアーテルアストレアがここからグランブリッジの外へ。アイコンテーラーがヴィブラフォンの前に出て先頭に立つと,ライオットガールは追っていくことができず,グランブリッジとアーテルアストレアが追い詰めていき3頭の優勝争い。真中から最後に前に出たグランブリッジが優勝。アイコンテーラーがアタマ差で2着。アーテルアストレアは4分の3馬身差で3着。
 優勝したグランブリッジは昨年のエンプレス杯以来の勝利で重賞5勝目。レースでは常に力を出すのですが,牡馬相手のレースも多かったこともあり,なかなか勝てずにいました。牝馬戦では能力上位だと思うのですが,2着が多い馬ですから,そういうタイプであると把握しておく必要があるでしょう。母の父はダイワメジャービューチフルドリーマーワールドハヤブサの分枝。
                            
 騎乗した川田将雅騎手第17回以来となる4年ぶりのレディスプレリュード2勝目。管理している新谷功一調教師はレディスプレリュード初勝利。

 僕はこのような状況から考えると,遺稿集Opera Posthumaの編集者の総意としてスピノザの遺稿の売却が考えられていたわけではなく,シュラーGeorg Hermann Schullerが独断でライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して遺稿の買取りを打診したのではないかと思います。他面からいえば,ほかの編集者たちは考えを改めて遺稿集の出版を決断したわけではなくて,その遺稿を入手した以上は出版するために当初から奔走していたのではないかと思います。
 『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』に関連した部分はこれだけです。次に『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の当該部分をみておきます。
 すでにいっておいたように,ナドラーSteven Nadlerはスピノザの死を看取った医師はマイエルLodewijk Meyerであったと解しています。ただし,シュラー説も紹介されていて,その可能性を否定していません。これはフロイデンタールJacob Freudenthalが実際にはシュラーであったとするときにも同様なのですが,この人がアムステルダムAmsterdamから来た医師であったということが理由のひとつとされています。マイエルは医師ではないけれどもシュラーは医師であったので,アムステルダムから来たのが医師であったとするなら,それはマイエルではなくシュラーであったとする見方です。
 僕はそれが本当に理由になるのかということは疑問に感じる部分もあります。すでにいっておいたように,もしもスペイクがシュラーが来たのにマイエルが来たと勘違いするなら,スペイクはシュラーともマイエルとも面識がなかったとしなければなりません。なのでシュラーなりマイエルなりが来たときに,その人が医師であるのか医師ではないのかということをスペイクが知ることができるのかということに疑問を感じるからです。スペイクが,実際にはシュラーが来たのにマイエルが来たと間違える場合の例をすでに示しましたが,それと同じように,スピノザからは医師が来ると伝えられていたけれどもマイエルが来たという場合には,スペイクはマイエルのことを医師と思い込むということがあり得るからです。実際にこのアムステルダムから来た医師と記述されている人がなしたと書かれているのは,老いた鶏のスープを作らせてスピノザに食させたことと,スピノザの死後に机の上の金品を持ち帰ってしまったことだけです。
コメント
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