熊本記念の決勝。並びは深谷‐阿部の東日本,町田‐松浦‐隅田の山陽,嘉永‐中川の熊本で,坂井と脇本は単騎。
スタートを取りにいったのは松浦と深谷と中川の3人。松浦が誘導の後ろに入って町田の前受け。4番手に深谷,6番手に坂井,7番手に嘉永,最後尾に脇本で周回。残り3周のバックから町田が誘導との車間を開けてペースダウン。残り2周のホームの入口の手前から嘉永が上昇。ホームで町田を叩きました。バックに戻って叩かれた町田が巻き返し,嘉永を叩き返して打鐘。嘉永は飛びつけず,山陽の3人が出きりました。ホームから坂井が発進。バックで松浦の横までいきましたが松浦の牽制で失速。松浦はそのまま発進。後方から嘉永と深谷も捲り上げてきました。松浦が先頭で直線に。嘉永は失速しましたが深谷は最後まで伸び,松浦を差し切って優勝。松浦が半車身差で2着。松浦マークの隅田が半車身差で3着。
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優勝した静岡の深谷知広選手は5月の武雄記念以来の優勝で記念競輪21勝目。熊本記念は初優勝。このレースは脚力で上位の脇本と,町田の番手を回る松浦が有力とみていましたが,単騎となった脇本が離れた最後尾となってしまい不発。これは作戦ミスといわざるを得ないでしょう。松浦も展開は有利だったのですが,単騎となった坂井が最初に捲ってきたのが意外で,その分だけ脚を使ってしまったということだと思います。深谷は嘉永よりも後,残り半周を過ぎてからの仕掛けになったのですが,レース展開上はそれがベストのタイミングであったということだと思います。
レベッカRebecca de Spinozaが提出されたとされる嘆願書に対して,裁判所がどのような判断を下したのかは分かりません。ただ,レベッカがその後も遺産相続人を主張するならスペイクに支払うべきであった費用を支払わなかったということは確実です。スペイクの方はそれを取り戻す必要がありましたから,スピノザの遺品を競売にかける権限を得て,実際にそれらを競売にかけたのです。この権限が,公的機関から得たのか,それとも遺産の相続人であったレベッカおよびダニエルDaniel Carcerisから得たのかは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』からははっきりしません。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの方ではハーグDen Haagの裁判所から権限を得たとなっていますから,支払いを拒むレベッカに対して業を煮やしたスペイクが裁判所に訴え出て,権限を与えられたということなのだと思います。
競売が実際に行われた期日をナドラーSteven Nadlerは11月としか表現していませんが,これはコレルスの伝記にある通り,11月4日のことであったと思われます。この競売には多くの参加者があったと書かれていますが,これはおそらく売り上げからのナドラーが類推したことでしょう。ナドラーもこの競売によって借金に充てる以上の収益があったとみています。
一方で,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通して,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用と家賃は弁済されていました。このこともナドラーは史実であるとみています。したがって,競売によって得た収益は,そうした費用に充足させる必要はなかったものと思われます。なので,スピノザにそれ以外の借金があって,それに充てるための費用をスペイクがなお必要としていたのでない限り,借金に充てる以上の収益があったというのは,単純に収益のほとんどがスペイクの手許に残ったという意味にしか僕には解せません。すべてといわずにほとんどというのは,競売を実施するにあたっても費用というのが必要だったのであって,そうした費用についてもこの収益の中から支払われたとみるのが妥当であると思うからです。ただレベッカはたとえ相続してもスペイクには支払わなければならなかったわけですから,わずかな収益を遺産として相続する必要はないと判断したのでしょう。
スタートを取りにいったのは松浦と深谷と中川の3人。松浦が誘導の後ろに入って町田の前受け。4番手に深谷,6番手に坂井,7番手に嘉永,最後尾に脇本で周回。残り3周のバックから町田が誘導との車間を開けてペースダウン。残り2周のホームの入口の手前から嘉永が上昇。ホームで町田を叩きました。バックに戻って叩かれた町田が巻き返し,嘉永を叩き返して打鐘。嘉永は飛びつけず,山陽の3人が出きりました。ホームから坂井が発進。バックで松浦の横までいきましたが松浦の牽制で失速。松浦はそのまま発進。後方から嘉永と深谷も捲り上げてきました。松浦が先頭で直線に。嘉永は失速しましたが深谷は最後まで伸び,松浦を差し切って優勝。松浦が半車身差で2着。松浦マークの隅田が半車身差で3着。
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優勝した静岡の深谷知広選手は5月の武雄記念以来の優勝で記念競輪21勝目。熊本記念は初優勝。このレースは脚力で上位の脇本と,町田の番手を回る松浦が有力とみていましたが,単騎となった脇本が離れた最後尾となってしまい不発。これは作戦ミスといわざるを得ないでしょう。松浦も展開は有利だったのですが,単騎となった坂井が最初に捲ってきたのが意外で,その分だけ脚を使ってしまったということだと思います。深谷は嘉永よりも後,残り半周を過ぎてからの仕掛けになったのですが,レース展開上はそれがベストのタイミングであったということだと思います。
レベッカRebecca de Spinozaが提出されたとされる嘆願書に対して,裁判所がどのような判断を下したのかは分かりません。ただ,レベッカがその後も遺産相続人を主張するならスペイクに支払うべきであった費用を支払わなかったということは確実です。スペイクの方はそれを取り戻す必要がありましたから,スピノザの遺品を競売にかける権限を得て,実際にそれらを競売にかけたのです。この権限が,公的機関から得たのか,それとも遺産の相続人であったレベッカおよびダニエルDaniel Carcerisから得たのかは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』からははっきりしません。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの方ではハーグDen Haagの裁判所から権限を得たとなっていますから,支払いを拒むレベッカに対して業を煮やしたスペイクが裁判所に訴え出て,権限を与えられたということなのだと思います。
競売が実際に行われた期日をナドラーSteven Nadlerは11月としか表現していませんが,これはコレルスの伝記にある通り,11月4日のことであったと思われます。この競売には多くの参加者があったと書かれていますが,これはおそらく売り上げからのナドラーが類推したことでしょう。ナドラーもこの競売によって借金に充てる以上の収益があったとみています。
一方で,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通して,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用と家賃は弁済されていました。このこともナドラーは史実であるとみています。したがって,競売によって得た収益は,そうした費用に充足させる必要はなかったものと思われます。なので,スピノザにそれ以外の借金があって,それに充てるための費用をスペイクがなお必要としていたのでない限り,借金に充てる以上の収益があったというのは,単純に収益のほとんどがスペイクの手許に残ったという意味にしか僕には解せません。すべてといわずにほとんどというのは,競売を実施するにあたっても費用というのが必要だったのであって,そうした費用についてもこの収益の中から支払われたとみるのが妥当であると思うからです。ただレベッカはたとえ相続してもスペイクには支払わなければならなかったわけですから,わずかな収益を遺産として相続する必要はないと判断したのでしょう。