和歌山記念の決勝。並びは新田‐守沢‐山崎‐佐藤の北日本,脇本‐古性‐藤田の近畿で真杉と深谷は単騎。
新田がスタートを取って前受け。5番手に深谷,6番手に真杉,7番手に脇本で周回。残り2周のバックに入ったところから脇本が発進。新田と並んだところで打鐘。ここから新田は突っ張り,先行争いに。ホームで脇本が叩いて前に出ましたが,先行争いのあおりで新田が番手に入りました。3番手は確保した古性はすぐに追い上げ,新田の外で併走。競りがバックの出口まで続き,古性が奪い返しました。競りの後ろにいた守沢は半ば自力で発進したものの,前には追い付けず。直線は古性が脇本に迫りましたが差すには至らず,逃げ切った脇本の優勝。古性が4分の3車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。守沢が半車身差で3着。守沢マークから外の方に進路を取った山崎が4分の1車輪差で4着。
優勝した福井の脇本雄太選手は競輪グランプリに続いての優勝。記念競輪は昨年9月の向日町記念以来となる優勝で11勝目。GⅢは12勝目。和歌山記念は初優勝ですが,2020年の高松宮記念杯を当地で勝っています。グランプリの内容から復活しているので,最有力候補。単騎の深谷がかまして後方になってしまうと苦しむかもしれないと思っていましたが,深谷も真杉も脚を使うことができない展開になりました。新田は突っ張ったというより番手を狙いにいったのではないかと思いますが,一旦は奪われた古性がすぐに追い上げることによって事なきを得ました。そういう意味では古性の役割が大きかった上での結果だったといえるでしょう。
Xの混乱した観念idea inadaequataとXの十全な観念idea adaequataは,同じ人間の精神mens humanaのうちに同時にあることができます。現実的に存在するある人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとき,その精神のうちにXの十全な観念が発生してもXの混乱した観念は排除されないとか,現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるとき,同じ精神のうちにXの混乱した観念が発生することは妨げられないということは,そのようなことを意味するからです。ただ,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同じ人間の精神のうちに同時にあるときには,その人間はXの混乱した観念については,それが混乱した観念であることを知ります。このことは第二部定理四二と第二部定理四三から明白なのであって,もし現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるなら,その人間はそれがXの十全な観念であるということを知るのであって,そのことによってXの真理veritasと虚偽falsitas,いい換えればXの十全な観念とXの混乱した観念とを区別することができるからです。よってこの場合にはその人間がXの混乱した観念を真理であると思い込むこと,あるいは同じことですがXの混乱した観念をXの十全な観念であると思い込むことは絶対に生じません。
第五部定理四二備考で,賢者は賢者としてみられる限りではその存在をやめることはないといわれるとき,その意味を上述の主旨に関連させて解釈することは可能でしょう。すでに考察しておいたように,現実的に存在する人間は,必ずある観念から別の観念へと移行するのであって,それは十全な観念から混乱した観念あるいは表象像imagoへと移行することも含みます。ただそのときに賢者と無知者を分かつのは,十全な観念を認識しているか混乱した観念を認識しているのかという差異にあるのではなくて,混乱した観念を虚偽であると知っているか真理であると思い込んでいるかという差異にあるのでした。したがって,Xの十全な観念がある人間の精神のうちにある限り,その人間はXの混乱した観念を認識したとしても,常にそれが虚偽であると知ることになります。つまりその人間はXについて賢者であることをやめることはないでしょう。
新田がスタートを取って前受け。5番手に深谷,6番手に真杉,7番手に脇本で周回。残り2周のバックに入ったところから脇本が発進。新田と並んだところで打鐘。ここから新田は突っ張り,先行争いに。ホームで脇本が叩いて前に出ましたが,先行争いのあおりで新田が番手に入りました。3番手は確保した古性はすぐに追い上げ,新田の外で併走。競りがバックの出口まで続き,古性が奪い返しました。競りの後ろにいた守沢は半ば自力で発進したものの,前には追い付けず。直線は古性が脇本に迫りましたが差すには至らず,逃げ切った脇本の優勝。古性が4分の3車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。守沢が半車身差で3着。守沢マークから外の方に進路を取った山崎が4分の1車輪差で4着。
優勝した福井の脇本雄太選手は競輪グランプリに続いての優勝。記念競輪は昨年9月の向日町記念以来となる優勝で11勝目。GⅢは12勝目。和歌山記念は初優勝ですが,2020年の高松宮記念杯を当地で勝っています。グランプリの内容から復活しているので,最有力候補。単騎の深谷がかまして後方になってしまうと苦しむかもしれないと思っていましたが,深谷も真杉も脚を使うことができない展開になりました。新田は突っ張ったというより番手を狙いにいったのではないかと思いますが,一旦は奪われた古性がすぐに追い上げることによって事なきを得ました。そういう意味では古性の役割が大きかった上での結果だったといえるでしょう。
Xの混乱した観念idea inadaequataとXの十全な観念idea adaequataは,同じ人間の精神mens humanaのうちに同時にあることができます。現実的に存在するある人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとき,その精神のうちにXの十全な観念が発生してもXの混乱した観念は排除されないとか,現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるとき,同じ精神のうちにXの混乱した観念が発生することは妨げられないということは,そのようなことを意味するからです。ただ,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同じ人間の精神のうちに同時にあるときには,その人間はXの混乱した観念については,それが混乱した観念であることを知ります。このことは第二部定理四二と第二部定理四三から明白なのであって,もし現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるなら,その人間はそれがXの十全な観念であるということを知るのであって,そのことによってXの真理veritasと虚偽falsitas,いい換えればXの十全な観念とXの混乱した観念とを区別することができるからです。よってこの場合にはその人間がXの混乱した観念を真理であると思い込むこと,あるいは同じことですがXの混乱した観念をXの十全な観念であると思い込むことは絶対に生じません。
第五部定理四二備考で,賢者は賢者としてみられる限りではその存在をやめることはないといわれるとき,その意味を上述の主旨に関連させて解釈することは可能でしょう。すでに考察しておいたように,現実的に存在する人間は,必ずある観念から別の観念へと移行するのであって,それは十全な観念から混乱した観念あるいは表象像imagoへと移行することも含みます。ただそのときに賢者と無知者を分かつのは,十全な観念を認識しているか混乱した観念を認識しているのかという差異にあるのではなくて,混乱した観念を虚偽であると知っているか真理であると思い込んでいるかという差異にあるのでした。したがって,Xの十全な観念がある人間の精神のうちにある限り,その人間はXの混乱した観念を認識したとしても,常にそれが虚偽であると知ることになります。つまりその人間はXについて賢者であることをやめることはないでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます